「風車」-第六三号(一九八三年七月)
久しぶりに裁判の判決に納得がいった。六月二十九日、大阪高裁の仲西裁判長は、「国鉄には視力障害者用の点字ブロックなど安全施設をどの駅にも設置すべき義務がある」のに、それを怠っていたと、大原隆さんの訴えを認め、国鉄に損害賠償の支払いを命じた。
国鉄は「少数の視力障害者の乗降しかない駅への点字ブロック設置の義務はない」と主張し、地裁の一審判決もそれを支持した。それによって死傷や不便を生じるとしても、その数が小さければ無視してもよい、ということだろう。だが、これこそ原発など現代テクノロジーを支配する確率論的切捨て論だ。
物事の軽重、そして命の軽重すらも、被害の大きさ×発生確率の積の大小で決められていく。事故の安全解析から許容線量の規制まで、原発の正当化の背景には、いつも確率論があり、それによる少数の切捨てがある。
いや、原発では事故確率も被害の規模も大きいぞ、といって反論するのは、すでに確率論にはめられている。いったんこの論理にはめられると、数字のやりくりなどは権力者の操作のまま、結局は多数による少数の切捨てからさらには少数権力者による多数者の切捨てまで許してしまう。
経済合理性という陥穽に入りこむことなく、生命の尊厳の無条件の優位を認めた仲西判決を、とくに今評価したい。(高木)
Posted by 編集部 at 2004年01月21日 17:42