「風車」-第一三〇号(一九八九年一月)
理くつとこうやくはどこにも付く。しかしまぁ次々色いろと、原発推進の必よう性とやらの理屈を繰り出してくるもんだ。
安いの綺麗のと、とうぶんの間はその場かぎりのあん易な理屈づけが猫の目よろしくつづきそうである。おちついて考えてみると、だが、原ぱつとは奇妙なエネルギーげんだ。原発以外のエネルギーげんでは、普及するのに特だんの理屈は要らなかったのではないか。
水の低きに流るにも似て自然と、あたらしい、あん価で、つかい勝手のよいえねるぎい源が、ことさら熱べんを振うまでもなく、その地ほを占めてきた。しかるに、そうはいかなかったのが、原発というわけだ。政治の力なしで推進できない、理くつでおめかししないと推進できないおかしなエネルギー源となっているのである。
いまでは推しんしている当の電力会社もまた、実のところはもういやけがさしているのに、これがあらたまらないのも、正にそんな政治力エネルギーのいんねんゆえだろう。私たちがあん心して生きていける世をねがうなら、私たちが自身でだつ原発を実現し、世界中の原ぱつを止めるしかない。
脱げん発には理屈は要らない。脱げん発に世界が向かうのは、つまりそれこそが自然なことだからなのである。(西尾)
Posted by 編集部 at 2004年01月22日 00:19