風車(第309号=2003.12)
▼来年一月から、原子力委員の顔ぶれががらりと変わることになった。
▼新しい委員長は近藤駿介・東大大学院教授。委員には斎藤伸三・原研理事長、町末男・前IAEA事務次長、前田肇・前関西電力副社長が新任。評論家の木元教子委員のみ留任である。木元委員は非常勤であり、一時は休職宣言をしていた。実質的には総入れ替えと言ってよく、過去には例がない。「それまでの慣習やしきたり、前例」に木元委員が泣かされたという原子力委員会で、前例を知る者は木元委員一人になるというのは、皮肉が過ぎよう。
▼中央省庁再編を契機に変更されるまで、原子力委員長は国務大臣がつとめていた。原子力委員会の設置法には、委員会の決定を内閣総理大臣は「十分に尊重しなければならない」とする条文があった。委員長代理をつとめた故・有澤廣巳氏が原子力委員会の唯一の存在価値と呼んだ「平和利用の番人」の担保だ。それらもなくなり、委員会不要論に拍車がかかる中での委員一新は、いよいよもって同委員会の重みを問うことになる。 唯一の存在価値に期待できなくなった今なお、「最後の仕事が残っている」と説くのは、原子力未来研究会。「時代遅れになった『国策』の呪縛を解く」仕事だという。
▼新原子力委員会の初仕事は原子力長期計画の見直しだが、「最後の仕事」を期待できるだろうか。
風車(第307号=2003.10)
▼3面[WEBでは略]の小木曽さんの記事にあるように、「もんじゅ」運転再開に向けた改造工事入りの同意取り付けを狙う動きが騒がしさを増している。しかし、再開の理由は不透明だ
▼なにせ四半世紀近くも以前に設置許可が申請された炉である。百歩譲って当時は建設の必要があると考えられたとしても、もはやその意義は失せているのではないか。設置許可申請書の添付書類「原子炉の使用の目的に関する説明書」は言う。「近い将来エネルギー需給の逼迫が予想される状況下におかれており」、"資源小国"日本は「高速増殖炉の実用化を最も緊急に必要とする立場にある」。そこで、「一九九〇年代に実用化するため、実証炉、実用炉にいたる原型炉を自主開発する」のだ、と
▼「近い将来」だの「緊急に」だのといった言葉をちりばめて必要性が強調されていたのだが、「近い将来」も一九九〇年代も疾うに過ぎてしまった。「実証炉、実用炉にいたる」計画は白紙に戻され、高速増殖炉はいまや「百年、千年という長いスパンで見てほしい」(藤家洋一原子力委員長)ものに変わった。今年一月の高裁判決は、「もんじゅ」の危険性を重く見て設置許可の無効を宣したが、使用目的の消失からも許可は無効だろう
▼許可から二十年の歳月は、その誤りを白日の下に曝け出した。運転再開が許されるはずもない。(N)
「風車」-第三〇六号(二〇〇三年九月)
本紙に時折フランスのホット・ニュースを届けてくれているパリ在住の美術家でフリージャーナリストのコリン・コバヤシさんが、編著『市民のアソシエーション』を太田出版から刊行した。
副題に「フランスNPO法一〇〇年」とある。アソシエーション(アソシアシオン)は、日本のNPO法人に相当する市民団体のことだが、根本にあるのが「市民活動の自由」だという点で、百年前のフランスの法律のほうが日本のNPO基本法より新しいと言える。否、日本の法律が遅れ過ぎているのである。
フランスNPO法の成立過程と現状を考察し(巻末に条文と解説)、さまざまな団体の活動を紹介したなかには、「有効なシビリアン・コントロールとは何か?」と題した章で、私たちに馴染みの深いアクロ(西部地方放射能監視協会)とクリ=ラッド(放射能に関する独立の研究と情報委員会)も取り上げられている。この章の筆者はもちろんコバヤシさんだ。
コバヤシさんは日本のNPO基本法について「国が管理・検閲しようとする意志」に危惧を抱いているが、六月五日発行の個人誌『原発雑考』で田中良明さんは、偽装した営利活動や企業・行政の別動隊がNPO法人となれる点に、むしろ法制度の固有の矛盾を見ている。
NPO法人の意義とは何か。理念と現実の両面から考えてみたい。(N)
「風車」-第三〇六号(二〇〇三年九月)
本紙に時折フランスのホット・ニュースを届けてくれているパリ在住の美術家でフリージャーナリストのコリン・コバヤシさんが、編著『市民のアソシエーション』を太田出版から刊行した。
副題に「フランスNPO法一〇〇年」とある。アソシエーション(アソシアシオン)は、日本のNPO法人に相当する市民団体のことだが、根本にあるのが「市民活動の自由」だという点で、百年前のフランスの法律のほうが日本のNPO基本法より新しいと言える。否、日本の法律が遅れ過ぎているのである。
フランスNPO法の成立過程と現状を考察し(巻末に条文と解説)、さまざまな団体の活動を紹介したなかには、「有効なシビリアン・コントロールとは何か?」と題した章で、私たちに馴染みの深いアクロ(西部地方放射能監視協会)とクリ=ラッド(放射能に関する独立の研究と情報委員会)も取り上げられている。この章の筆者はもちろんコバヤシさんだ。
コバヤシさんは日本のNPO基本法について「国が管理・検閲しようとする意志」に危惧を抱いているが、六月五日発行の個人誌『原発雑考』で田中良明さんは、偽装した営利活動や企業・行政の別動隊がNPO法人となれる点に、むしろ法制度の固有の矛盾を見ている。
NPO法人の意義とは何か。理念と現実の両面から考えてみたい。(N)
「風車」-第三〇五号(二〇〇三年八月)
平沼経済産業大臣は七月九日、新潟県と柏崎市、刈羽村の各議会で、柏崎刈羽4号炉の「安全宣言」を行なった。同炉の運転再開を容認すると地元自治体が決めたのは同月十八日だが、「安全宣言」が拠り所となったのは確かだろう。
自治体側は大臣に対し、原子力安全・保安院の経済産業省からの独立を求めていた。その要望に否定的な対応しか得られないまま再開を容認した自治体の姿勢が問われる。そもそも大臣に「安全宣言」をさせること自体、許すべきでなかったのではないか。原子力安全・保安院や原子力安全委員会が「安全宣言機関」に堕している問題はさておき、大臣に「宣言」をさせたのは、安全規制行政が大臣の下にあると認めたことになる。
大臣は六月十七日、やはり保安院の分離独立を求めている佐藤福島県知事の主張に反論して、「原子力を推進するうえで安全を知らないという体制は無責任だ」と述べたという。大臣の「安全宣言」は、まさに傘下の(より厳密には、経済産業省の「外局」として原子力推進の行政を担う資源エネルギー庁に属する「特別の機関」である)保安院の安全規制行政を包摂することで、より有効に「国策」たる原子力の推進を図る、との明確な意思表示だった。
だからこそ、安全規制行政の独立と原子力基本法上の位置付けの明確化がどうしても必要なのだが。(N)
「風車」-第三〇三号(二〇〇三年六月)
ご好評をいただいている(?)「原発『推進者』の発言から」が、二号続けて休載となってしまった。「賞味期限切れ」とならない内に、代わって本欄で紹介しておきたい。
「もんじゅの安全審査については私の知る限り、世界最高水準にあったことは間違いない」--三月三十日付中国新聞のインタビュー記事での、藤家洋一・原子力委員長のお言葉だ。世界中、どの国の安全審査も五十歩百歩と喝破したのである。
藤家委員長は、さらに言う。「広島、長崎という被曝体験を持つ国としては、核不拡散という観点からもプルトニウムをそのまま保管せず、核燃料サイクルを動かして利用することが重要」である、と。屁理屈としても筋の通らない強弁で核燃料サイクル政策に固執する原子力委員会。それを「国策」だと押しつけられる電力業界から悲鳴が上がるのも当然か。
4面の「講座」で取り上げた再処理コストの試算も、「国策」の無理を訴える電力業界のアドバルーンである。五月二十三日付毎日新聞は「核燃料サイクル見直しへ/自民が政府に要求/電力業界の意向を反映」と報じた。藤家流プルトニウム利用論を「硬直的」と批判し、電力業界が再処理能力を年間四百トンに半減させたりできるよう「柔軟な対応」を求めるという。
工場建設を中止することこそ、最も柔軟な対応なのだけどね。(N)
「風車」-第三〇一号(二〇〇三年四月)
二〇〇三年度の電力供給計画が、電力各社によってまとめられた。「経済状況及び省エネ効果等を踏まえた結果」(資源エネルギー庁)、各社とも電力需要の伸び率を前年度より下げて計画している。
その後は伸びるとしているものの、今年度は昨年実績よりマイナスの計画だ。最大電力また然りである。但し、東京電力だけは昨年実績を上回る予測を発表している。なぜだ、なんでだろう? 同電力では目下、大々的に節電キャンペーンを行なっているはずではないのか。
同電力によれば、最大電力は猛暑だった昨年の二%増の六千四百五十万kW。原発が全部止まっていると供給力は五千五百万kWで、九百五十万kWが不足する。不測の事態を考慮すれば、不足分はさらに大きい。そこで、福島第一原発の1、2号以外の十五基は動かせるとして千六百万kWを加え、最大電力時にも一〇%の予備率を確保するという。原発を動かす世論づくりのためには、需要を過大に見積もって不足分を大きく見せる必要があるというわけだ。
実際には供給力をもっと増やすこともできるが、むしろこの機会に需要を小さくする方向に舵を取りたい。原発を止まったままにした上で、二酸化炭素の排出も減らせるのだ。「節電」と言いながら、実はそうならないように原発を動かそうとする電力会社の企みを皆で打ち破ろう。(N)
「風車」-第二九八号(二〇〇三年一月)
高速増殖炉「もんじゅ」を動かせば、原子力船「むつ」の二の舞いになる--といった言い方をすることがある。この場合、言うまでもなく「むつ」は失敗の象徴である。
ところが、たとえば『原子力白書』を見るなら「むつ」は「実験航海を成功裏に完了した」らしい。その成果を生かして原子力船が実用化したわけでもなく、むしろ実用化計画は事実上は雲散霧消してしまっていても、彼らの間では「むつ」の開発は成功なのである。
とすれば、いまなぜむりをして、「もんじゅ」を動かそうとするのかがわかる。事故で止まったままなら失敗だが、ともかくも一度動かせば成功に化けるのだ。十二月六日付の福井新聞によれば、「もんじゅ」は運転再開後五年で、運転を継続するかどうかの判断がなされることになるのだという。五年どころか二年でも動かせばいいのだ、との話すら聞こえてくる。
その成果を生かして高速増殖炉の実用化の目途がつくわけでもなく、むしろ実用化計画は頓挫してしまっても、なおかつ彼らの間では「もんじゅ」の開発に成功ということになるのだろう。六ヶ所再処理工場も、運転を開始さえすれば成功で、その後、現実に即して再処理を抑制するのは失敗ではないのだ。原子力船「むつ」の二の舞いは、その意味で彼らにとって既定の方針なのかもしれない。(N)
「風車」-第二九七号(二〇〇二年一二月)
「欠陥原発動かし二法案」の動向は、二面に報告されている通りである。「原発トラブル隠しの再発防止策」とされる法案だが、十一月二十九日付福島民友の社説は、これを真っ向から批判している。
「だれがなぜ、何のために隠ぺい工作やねつ造行為をしたのか、という肝心の事実が全然、解明されていない」中で「きわめて拙速かつ無効な動きと言うしかない」と、その舌鋒は鋭い。「維持基準」の導入は「原発の安全性評価を現状よりも『甘くする』恐れを排除できない」という指摘は他にも見られるが、導入論そのものの欺瞞性を突く視点は、きわめて新鮮だ。
「新品同様の品質保証を強調してきたのは国と事業者のほうだった」「いまになって『新品同様であること』が『不合理だ』と言い出すなら、その不合理の責任は国と事業者にあることをまず、はっきりさせるべきではないか」--そこには、「東京あたりでは主流になりつつある」論法を斬る形で、地元の思いが在り在りと示されていた。
二面で武本和幸さんが述べていることの底流にも、多くの原発が「停電なく停止する」事態の中でのほほんとしている「東京あたり」の人々に苛立つ地元の思いがあるのではないか。「脱原発を全国的に考えるチャンス」を生かせないのは都市住民の責任だと言われないように、大いに奮励するとしたい。(N)
「風車」-第二九六号(二〇〇二年一一月)
「『原発検査基準』で名称クルクル/安全“強調”に苦心」と見出しのつけられた記事が、十月二十八日の毎日新聞夕刊に載っていた。
「維持基準」と言われていたものが「欠陥評価基準」に変わり、「許容欠陥評価基準」と言い直され、さらに「健全性評価基準」に変更されたのを辿った記事である。どんな名称をつけようと、むろん中身は変わらない。原発コストの削減を狙った安全規制の緩和に、何ら変わりはない(本紙前号参照)。
この基準を導入するための電気事業法の「改正」案が、本紙がお手元に届く前には国会に提出されていることになる。但し、法案そのものに盛られるのは「基準に基づいた設備の健全性評価と結果の記録・保存の義務づけ」で、肝心の基準は国会に提出されない経済産業省令に委ねられるしくみである。
とはいえ、法案が数の力で通り、基準が導入されたところで、地元自治体がひび割れの「健全性」を許容し、運転再開をすんなり認めることはありえない。国と電力会社に対する不信感を、基準の導入はより大きくすることが確実だ。
もんじゅの運転再開また然り。不信の中で、ただでさえ理由のない再開がどうしてできようか。核燃機構は二〇〇五年七月に再開と言い出したが、これは六ケ所再処理工場の運転開始計画と同年同月。
仲良く心中しようということか。(N)
「風車」-第二九一号(二〇〇二年六月)
非核三原則の見直しもありうるという福田官房長官の発言が議論を呼んでいる。問題になって慌てて「小泉政権の下では見直しはしない」と弁明したが、同政権がいつまで保つと思っているのだろう。
政権が変わっても三原則が堅持されるためには、単なる宣言ではなく、見直しの動きを封じる具体性を持った三原則の法制化が、最低限、必要となる。その中で、プルトニウムの生産に歯止めがかけられるべきことは言うまでもない。
福田発言を受けて、福島県の佐藤知事は六月三日、「テロや非核三原則が話題になっているいま、プルサーマルを推進しろという理由が分からない」「(核燃料サイクルを進めてしまうと)プルトニウムがどんどん増える。どこかでしっかり考えないといけない」と述べたという。プルサーマルはプルトニウムを減らすものでは決してなく、せいぜい死の灰で汚して核兵器への転用を難しくするだけだが、それ以上に六ヶ所再処理工場の運転開始を合理化し、むしろプルトニウムを(それも日本国内に)増やしてしまうのだ。
六ヶ所再処理工場を動かせば動かすだけ、余剰プルトニウムを増やす。非核三原則の見直しから核兵器の製造までは、あっと言う間である。そんな再処理工場を抱えた青森県知事は、今の事態について、さて何を表明するのだろうか。(N)
「風車」-第二九〇号(二〇〇二年五月)
政府は四月十六日、武力攻撃事態法案と自衛隊法改正案、安全保障会議設置法改正案の三法案を閣議決定し、衆議院に提出した。いわゆる有事法制整備の第一歩である。
この法案が、「国民の安全の確保に資する」(武力攻撃事態法案第一条)どころか、人々の自由と権利を侵害し、むしろ危険を招き寄せるものであることは、すでにさまざまに指摘されている。ところが十七日の福井新聞には、敦賀市の河瀬一治市長の、次のようなコメントが載っていた。「法案は原発の安全確保の強化につながるとの観点から意義がある」。
法案のどこにも、そんな条文はない。むしろ法案そのものが戦争の準備と受け取られ、国際的な緊張を高めるのが落ちだろう。再処理に固執する姿を重ね合わせれば、核戦争を準備しているとさえ見えるかもしれない。だからこそ再処理工場も原発も、「予防」攻撃の対象となる。そうなれば「自国内に置かれた敵国の核兵器」になるのは必至だ。原発立地市の長としては思慮に欠ける発言だった。
武力攻撃事態法案は、電力会社など「指定公共機関」は「武力攻撃事態への対処に関し、その業務について、必要な措置を実施する責務を有する」としている。その中身は不明。「武力攻撃事態以外の」緊急事態対処の措置もまた不明である。第一歩を踏み出すこと自体が狙いらしい。(N)
「風車」-第二八九号(二〇〇二年四月)
「間違いがとてもわかりやすい」--六ヶ所ウラン濃縮工場の事業許可をめぐる裁判の判決(↓2面)の感想を求められて、こう答えた。
たとえば、原告適格を狭めた根拠を見るがいい。事故の被害が広範囲に及びうるとの原告の主張に対し、「右の主張における被害は、本件施設から放出された放射性物質が、周辺環境を介して広範囲に拡散する中で人体へ摂取されることにより生じるものであって、本件施設の事故により直接もたらされるものとはいい難く……そのような被害を受けるにとどまる住民の生命、身体の安全等は……個々人の個別的利益として保護されるものではない」。
放射線の影響に「しきい値の存在を前提として」審理判断する、と読んで誤植を疑った記述の理屈は、次の如し。「しきい値がないものとした場合、そのような非確率的影響(あれ? やっぱり誤植? 否、まるまる誤解なんでしょうね)をいかなる程度においても防止しようとするならば、六フッ化ウランの漏洩や放射性廃棄物の排出を皆無とし、臨界事故その他の事故発生の可能性も絶対的に零としなければならないことになる」。
施設は有益なんだから、臨界事故くらい起きても不運だったと諦めなさい、と判決は言う。実は筆者は法廷で、施設に一利もないことをこそ証言したのだが、反論すらなく無視された。(N)
「風車」-第二八八号(二〇〇二年三月)
全国の電力需要が、二月も前年の実績を下回った。七ヵ月連続の前年割れは、過去最長である。
六ヵ月連続は、二回の石油ショックの時に起きている。一月にこれと並んだことを二月十八日付電気新聞の「デスク手帳」は、「石油ショックの時は外的要因による不況風。今回は構造的要因によるものだけに根が深い」と書いた。そんな質の違いに加えて、二月には、量的にも記録を塗り替えたことになる。
そしてさらに、七ヵ月連続でストップする保証は、どこにもない。一月三十一日付の電気新聞は「長期需要低迷」の大見出しを掲げ、「今年度は電力十社の販売電力量だけでなく、自家発電なども含めた総需要も前年度実績を割り込むことがほぼ確実」と書いていた。「来年度についても本格的な需要の好転は見込めず、気温補正前の総需要は今年度に引き続き前年割れとなる可能性が強い」。
電力自由化の進展に対応するべく料金の値下げを余儀なくされている電力会社にとっては、まさに「泣き面に蜂」である。「需要の伸びの低迷に極めて弱い体質」と、かつて当時の四国電力の社長が嘆いた原発は、いよいよもってお荷物となってきた。そこで熱出力一定運転とか、定期検査の期間短縮・間隔延長とか、果ては「公的支援」という名の責任放棄とかの悪足掻きが強まっている。何よりそれが恐い。(N)
「風車」-第二八三号(二〇〇一年一〇月)
九月十一日、ニューヨークの世界貿易センタービルとワシントンの国防総省に、ハイジャックされた航空機が激突、破壊した。この米中枢テロの後、マスメディアの多くは「報復」の二文字に酔い、「次のテロの恐怖」を煽っている。
そんな中で、原発を標的とするテロの危険性も、格好の素材とされた。確かに、もし現実になれば、深刻な放射能災害が起こりうることは論をまたない。守りの薄いタービン建屋や核燃料輸送が襲われたら、などと想像するだにおぞましい。
国や電力会社は「想定外」と言うが、原子炉攻撃は実例があり、国連でたびたび禁止決議がなされている。原発や核燃料サイクル施設の周辺への自衛隊機などの墜落も頻発している。それでも安全審査では、原発上空の航行は規制されているとして、飛来物対策は無視されてきた。テロのこわさより、飛来物に対する原発の脆弱性が問題とされるべきだろう。脱原発が唯一の防止策である。
今回の事態は、テロ対策と称して、これまで以上に核管理社会化がおしすすめられる危険性こそを教えている。事件の前から取り沙汰されていた自衛隊による原発警備(自衛隊法「改正」案からは外されるらしいが)。そして、事件後すぐに始まった米原潜の入港情報の公表中止などの動き。「原子力帝国」(R・ユンク)を阻止するのは、今をおいてない。(N)
「風車」-第二八二号(二〇〇一年九月)
経済産業省の本省ビルで使う電力の競争入札が八月十日に行なわれ、東京電力は今年も敗退。二年連続で落札したのは、三菱商事の子会社のダイヤモンドパワーだった。
応札を計画していたエネットが断念を強いられた新規参入の障壁の問題もあるが、それはさておくとしよう。いずれにせよ経産省は、また一年間、原発の電気を使わないことになった。その影響をめぐっての同省幹部とのやりとりを、日刊工業新聞の斉藤俊六論説主幹が『エネルギーレビュー』誌の八月号で紹介している。
幹部氏のいわく「当省が原発の電気を使わないと言われても、原発推進の方針に変わりはない」。とはいえ、「仮に、政府の官庁全てが電力会社以外からの電気を調達するようになっても、政府の方針通りに原発を推進することができるだろうか」との問いには、「支障が出るかもしれない」と答えた。
経産省はともあれ、原発専業の日本原子力発電にとっては、より切実である。同社は、本社費の削減のため、賃貸料が現在の半分のビルに移転しようとした。ところがこのビルはJRのビルで、自家発電設備から電力の供給を受けることがわかって計画を白紙に戻した、と八月七日付の日刊工業新聞は報じている。新たな内定でも、「今後も原子力電源を使うビルであることを念押しして正式契約」とか(笑)。(N)
「風車」-第二八一号(二〇〇一年八月)
電気事業の部分自由化により、核燃料サイクル開発機構が初めて、もんじゅで使う電力の入札を行なった。八月一日からの一年契約だ。
ところが、応札はこれまで通りの北陸電力一社のみで、単独落札した。契約電力量が一万一千。
と大きく、しかもナトリウムの保温のため電気を使いっぱなしの超安定顧客。実においしい話のはずなのに何故? と七月十九日付の日刊工業新聞が首を傾げている。おまけに、もんじゅへの送電は関西電力の送電線を、北陸電力が使用料を払って使っており、関電が応札するなら、それだけ安く料金設定ができる。関電が応札しないのは、確かに謎である。
関西電力と言えば、謎がもう一つ。株価の低迷がすさまじい。電力会社の株価は、長年にわたって東京電力、関西電力、中部電力……と、会社の大きさ順に高い値がついていた。ところが昨年以来、関電は中電に抜かれたまま。今年六月末には一瞬、九州電力にも抜かれて話題になっていた。それが七月二十六日には何と、東京、中部、東北、九州の各電力に次ぐ第五位にまで転落したという。
関西経済の地盤沈下の反映だそうだが、それだけでは説明がつかず、さまざまな憶測が流れているらしい。その関西電力のもんじゅ電力応札見送り。もんじゅの先行きに信用がないのか、関電がおかしいのか。(N)
「風車」-第二七八号(二〇〇一年五月)
世の中、わけのわからないことが多過ぎる。
京都議定書からのアメリカの脱退表明を受けて、四月九日付の電気新聞は「日本のエネルギー政策 揺らぐ土台」と言う。日本のエネルギー政策は、京都議定書で定められた温室効果ガスの一九九〇年比六%削減を前提としてきた。「その前提条件となる京都議定書が米の不参加で事実上骨抜きになれば、COP3を土台とするエネルギー政策自体の意義が揺らぎかねない」。
ちょっと待ってよ。アメリカが抜けるなら日本も無理をすることはない、温室効果ガス削減を前提としたエネルギー政策が揺らぐというのなら、地球温暖化防止とはいったい何なのか。もっとも、日本の温室効果ガス削減はもともと数字の辻褄合わせで、エネルギー起源の二酸化炭素削減はゼロ。増やさないというだけが、政策の前提条件だった。それも、エネルギーの使用量を増やしつつ、原発増設で達成するとか。始めから破綻が前提の政策だ。
電力需要が伸びなくて原発や火発の建設を延期、と電力会社が表明すれば、「原発建設の遅れで温室効果ガス削減に影響」と書くマスコミもわけがわからない。需要が減って原発も火発も建設されないのだから、温室効果ガスの排出量は明らかに減少するだろうに。
口先だけの温暖化防止がわけのわからぬ記事になる。それが悲しい。(N)
「風車」-第二七七号(二〇〇一年四月)
世の中、わけのわからないことが多過ぎる。
福島県知事が原子力政策全体の見直しとプルサーマル計画の棚上げを求めたことに、三月二十六日付電気新聞のコラム「観測点」で、ボイドと名乗る匿名の筆者が、泡のごとく空虚な抗議をしている。「余剰プルトニウムを出さないようにするという国の政策に協力しているというのが、プルサーマル計画の本質のはず。とすれば、そっちの話は国とやってくれ』と同社が憤慨しても責められるものではない」。
同社とは、東京電力のこと。つまり電力会社こそが被害者だと言いたいらしい。「今のところ『大人の対応』に終始しているが、自由化の中で、いつまで我慢して地域の声や国の政策に付き合っていられるか」と、ボイド氏の啖呵は勇ましい。
それなら「いずれ」などと遠慮はせずに、今すぐ「大きく態度を変え」てはどうだろう。プルサーマル計画なんぞ放擲し、プルトニウムを生み出しつづけている原発を止めればいい。自らプルトニウムを増やしつづけながら、余剰を出さないのが国の政策とは、それこそまったくわけがわからない。
プルサーマルはリサイクルだという電力会社の宣伝は、もっと理解に苦しむ。核燃料は、手間隙かけてつくって、三%ほど使っただけでゴミとなる。リサイクルできるもできないも、もともと欠陥商品と呼ぶべきだろう。(N)
「風車」-第二七一号(二〇〇〇年一〇月)
九州電力は、川内原発の増設に向けた環境調査を地元に申し入れました。敦賀3、4号で計画されているのと同じ、経済性「改良型」の加圧水型炉(APWR)です。
APWRの炉心は大容量化で燃料経済性を向上させるほか、「MOX炉心や高燃焼度炉心のような運転多様化ニーズに対し、フレキシビリティの高い設計」「全炉心MOX装荷運用にも対応可」などと、三菱重工では説明しています(『三菱重工技報』35巻4号)。原発の大きな弱点である小回りのきかなさを犠牲にしてまで大出力化して経済性向上を図る事情については、前号の本欄でも触れました。
それでもやはり九電にとって、増設は重荷以外の何ものでもないでしょう。投資額を回収できる見込みは、怪しいものとならざるをえません。島根3号の増設着手について八月二十八日付電気新聞のコラムは、「もろ手をあげて喜ぶわけにはいかないというのが関係者の一致した見方ではないか」とし、増設より「既設のプラントにまつわる問題のほうが山積している」と述べていました。川内原発の増設また然りです。
九電の電力需要の実績を見ると、原発の導入に合わせて料金を下げ、必死に需要開拓をしてきたことが一目でわかります。他ならぬ九電にとって増設が必要と明言できない経営者の姿に「国策追随」の無責任さが見えます。(N)
「風車」-第二七〇号(二〇〇〇年九月)
沸騰水型、加圧水型という両軽水炉の次世代炉の開発が、そろって始まった。沸騰水型が百七十万kW級と言えば、対する加圧水型はそれを上回る百七十五万kWと、しっかり張り合っている。
一方、策定中の原子力研究開発利用長期計画の案には、「革新的原子炉」への期待が表明されていた。審議の中では、委員の間から盛んに「小型炉」と明記するよう求める声があがったが、原案作成者たちはあくまで「炉の規模や方式にとらわれず」とする記述を譲らなかった。
原子力業界誌紙などでは、小型炉論議が賑やかである。しかし実際に商業炉をつくるとなれば、より大型化を目指す以外に発電コストを下げる道はない。「原発を存続させるには火力や水力などの発電方式に勝る経済性が必要」(東京電力)、「ほかの発電方式より優位に立つ経済性を持つ原子力発電を実現させる」(三菱重工)と、開発着手の説明も似通っている。
資源エネルギー庁の試算では、今でも原発がいちばん安いはず--なんて誰も信じてはいないようだ。それはともかく、小型炉論議が非現実的であることだけは確かだろう。だが、それなら大型炉は現実的か。
「電力自由化」で最も問題となるのは、原発の不経済性より、硬直性である(本紙6月号4面参照)。大型化は自殺行為に等しい。しょせん原発に明日などないのだ。(N)
「風車」-第二六九号(二〇〇〇年八月)
七月一日付の南海日日新聞(愛媛県八幡浜市)に「原発の町、伊方町にはなぜ町職員応募少ないの」と見出しのついた記事が載りました。
就職難の中、ふつうなら人気の高い町職員の応募者が、伊方原発の地元の愛媛県伊方町では、採用定員二人に対して三人のみだったというのです。隣りの保内町では三人に対して二十五人、八幡浜市では七人に対して三十六人と、「隣接の市町での高い人気と高倍率の応募に対して、原発の町として財政力が高い事を誇っているはずの同町の職員募集に、わずか一人オーバーという不人気ぶり」とか。なるほど「不思議な事」(中元清吉伊方町長)です。
大学から原子力と名前のつく学部・学科がなくなりつつあることは、よく知られていました。原子力の名を隠しても学生は集まらず、また、卒業後も原子力産業に就職する学生は少ないといいます。六月二十三日付の朝日新聞にも、「ほぼ全員が商社や情報関連産業などに就職するか、大学院に進学した」と、東京大学原子力工学科改めシステム量子工学科の卒業生への取材記事がありました。
「あえて沈む船に乗ろうとは思わなかった」という卒業生の言葉からすれば、「原発の町」も同じに見えるのかもしれません。増設の見返りにつぎこまれる“地域振興費”も、しょせん一過性と、誰の目にも自明なはずなのです……(N)
「風車」-第二六五号(二〇〇〇年四月)
前々号のDATABOXに載せた労働者被曝のグラフで、九三年度と九七年度が高くなっているのは、特別なわけがあるのだろうか、との質問を読者から受けた。
九八年度が下がっているのではなく、九七年度が高い--と、グラフを読んだことになる。労働者被曝は、八〇年代以降、減少を続けてきた。それが、九一年度を底に再び増える傾向を示している。そう見れば、指摘の通り、増加傾向を超えて、九三年度と九七年度が高い。
九三年度では浜岡1号の再循環系配管の交換工事、九七年度では福島第一3号のシュラウド交換工事による被曝が響いたのではないか。右の工事を含む浜岡1号の定期検査中の総被曝線量は十四人シーベルト、最大線量は二十四・九ミリシーベルト。同じく福島第一3号の総被曝線量は十六・九人シーベルト、最大線量は二十六・七ミリシーベルトとされている。どちらも翌年度にまたがってのものだが、通常の定期検査での被曝をはるかに上回っている。九三年度には、浜岡1号の他にもかなり高いものがあった。
今後、老朽化が進み、大型機器の交換が続くであろうことを考えると、労働者被曝の動向は予断を許さない。設備利用率を高めるための定期検査の短縮は被曝を減らしている原因の一つだが、それがかえって大きなツケをまわしてくるのでなければよいのだが。(N)
「風車」-第二六四号(二〇〇〇年三月)
核燃料サイクル開発機構の人形峠環境整備センターが二月十日、環境管理の国際規格であるISO14001を取得した。目を疑っておかしくないニュースである。
ごていねいなことに認定範囲は「問題化している敷地外の捨石堆積場を含む採鉱関連施設の維持など」と、二月十五日付の電気新聞は報じている。何をか言わんやだ。とはいえ、それほど驚くにはあたらないのかもしれない。ISO14001なるもの、すでにこれまで、原発にも石炭火力にも見境なきが如くに与えられているのだ。
ISO14001が経済活動のグリーン化をもたらすことを否定するつもりはない(嘉田由紀子・槌田劭・山田國廣編著『共感する環境学』ミネルヴァ書房所収の黒沢正一論文など参照)。さはさりながら、原発の放射性廃棄物の発生量削減が認定理由とされていたりするのを見ると、どこまで中身をわかってのことか、認証に疑問が残る。問題を多く抱えているほうが取得や更新をしやすいのでは、と邪推すらしてしまう。
人形峠環境整備センターの「環境」とは、原子力業界では「放射性廃棄物」の意だが、それも承知の上かどうか。ウラン濃縮施設の解体で出る放射性廃棄物をスソ切りして「リサイクルを可能にする効果的な除染」を行なうことが環境保全だなんて、やはり認めるわけにはいかない。(N)
「風車」-第二六二号(二〇〇〇年一月)
二〇〇〇年代劈頭の「風車」とあって、少しは格調高くと考えてはみたものの、柄にないことはせぬがよい。常の通りでお許しを願おう。
さて、十二月九日の参院で九九年度の第二次補正予算案が可決成立した。その中に、JCO臨界事故を踏まえたという原子力災害対策費千二百六十七億六千万円が盛り込まれている。科技庁、通産省はもとより、防衛庁、厚生省、建設省、文部省、警察庁……と、各省庁が競って予算を要求したものだ。
事故の責任を負う科技庁が、火事場泥棒よろしく多額の予算を要求するとは何ごとか--との批判がある。予算項目を見ても、建設省の「避難、迂回、緊急輸送道路の整備」だの、内閣安全保障・危機管理室の「原子力災害危機管理体制に関する調査」だのと、いかにも火事泥を絵に描いたようではある。
しかし、もっと根本的な問題は、そもそも国や自治体が原子力災害対策費を負担すべきなのかということだろう。それは、ほんらい原子力事業者が負担する費用ではないのか。
事故があって慌てて対策が立てられるなんてとも思うが、必要な対策ならもともと事業者が整備してから事業を始めるべきだった。国が乗り出してくれなくては心許ない、事業者では責任がとれないという事業なら、始めてはいけなかった。
同じことが、高レベル廃棄物のあと始末などにも言える。(N)
「風車」-第二六一号(一九九九年一二月)
日本原子力産業会議が、九八年度の原子力産業実態調査の結果を発表した。今回の調査では初めて、二〇一〇年までに二十基と計画されている原発の増設についてアンケート調査の項目に加えている。
その結果、「予定通り可能」と答えた会社は、回答を寄せた原子力関連産業二百四十七社の中で、わずか八・五%にとどまった。十六~十九基とする会社を加えてもやっと八・九%である。六~十基と答えた会社が五七・一%、一~五基が二二・三%だから、八割近くが十基以下と見ていることになる。
では、何年までなら二十基増設が可能か。この問に答えたのは二百十九社で、九割の会社が二〇一六年以降としている。二〇一六~二〇年が三二・〇%、二〇二一年以降が一三・七%、二十基増設はそもそも不可能と答えた会社が四四・三%だ。
さらに興味深い調査は、仮に計画通り二〇一〇年までに二十基の増設ができたとして、その場合の各社の売上げ増を尋ねたものである。回答は二百二十八社で、何と三八・六%が売上げ増はまったく見込めないと答えている。五億円未満が三一・一%で、両者を合わせると七割弱に達する。どうやら原子力産業としても、原発増設への期待度は低いらしい。
残念ながら、この増設問題の調査には電力会社の回答がない。増設で大赤字という欄がなかったせいだろうか。(N)
「風車」-第二六〇号(一九九九年一一月)
JCOの臨界事故では、多くの人が被曝をした。にもかかわらず科学技術庁では、「被曝者は六十九人」としている。
事故によって計画外の被曝をした人(正確には、被曝が確認された人)のみを、同庁では「被曝者」と呼んでいるのだ。臨界を止めるために水抜きの作業などを行なった労働者は、右に言う「被曝者」の大多数より大きな被曝をしていても、法令に定められた緊急時被曝の限度を超える被曝をした人さえ、被曝を前提として作業をしたのだから「被曝者ではない」ということになる。
その人たちの被曝は、「計画被曝」と名づけられている。しかし、計画的に被曝をしたのだから被曝者でないという理屈は、庶民感情からすると大いにいかがわしい。否、問題は単に語感だけではないのだ。
科技庁用語の「被曝者」には、原子力損害賠償法が適用されるが、計画被曝者には適用されない。労働災害の認定も、JCOの三人の重症者には、申請から一週間も経たずに行なわれた。だが、計画被曝者の場合は、定期検査などでの「計画被曝」の労災認定の現実を見るなら、今後何らかの病気にかかったときに必ず労災と認定されるという保証は、まったくない。
計画的--と言いながら、その実、被曝量の予測は十分に行なわれず、従って被曝低減の対策もないままに作業を強いられたことがわかっている。(N)
「風車」-第二五八号(一九九九年九月)
原発などへの工作員侵入を具体的に想定した本格的な対ゲリラ実戦訓練を、自衛隊が来年度に初実施--八月十八日、ロシアを訪問中の野呂田防衛庁長官が、同行記者団を相手にぶちあげた。
原発テロについては二、三年前から当時の橋本首相のお声掛かりでひんぱんに対策の必要性、自衛隊の活用論が説かれてきた。国会でも、各委員会でしばしば取りあげられている。もっとも、与謝野通産相や有馬科技庁長官の答弁は「工作員の侵入は難しく、万一破壊工作が行なわれても原発は安全」と、にべもない。ならば両大臣は、自衛隊がしゃしゃり出てくる口実に原発がつかわれることに厳重に抗議をするべきだろう。
侵入はともかく、ミサイル攻撃はどうか。通産相によれば「他国からのミサイル攻撃というのは戦争で、原発自体の安全性とは別の議論」だという。戦争で原発が標的になり、放射能災害を起こしても、原発には責任がないということらしい。
それは、戦争に限らない。内田秀雄元原子力安全委員長は、「想定事故を上回る事故が仮に起これば、それはいわば天災の類であって、免責とされる」と述べていた。この人たちの頭の中には、責任を逃れることばかりがあって、被害を受ける人はまったく見えないのである。
破壊や攻撃の対象となるのは、むろん、原発が放射能を抱いているからだ。(N)
「風車」-第二五六号(一九九九年七月)
原子力基本法で原子力利用の推進をうたっている箇所は、削除される必要がある。六月二十四日、総合エネルギー調査会原子力部会の「原子力政策について御意見を聴く会」に出席して、そう主張した。
賛否がはっきりあるのに、法で推進をするのは、おかしい。規制緩和の流れに逆行する。原子力安全委員会の設置も、情報公開も、「推進のため」と趣旨を歪められてしまう。
そして何より電気事業者の無責任さを助長している。「国のエネルギー政策で原子力をやっているのだから、廃棄物も国が全責任をもってほしい」。荒木浩電気事業連合会会長(発言当時)の言葉である。
それでも原発さえつくってくれればよいと、科学ジャーナリストの中村政雄さんから反論があった。「電力会社がやりたくなきゃやらないというふうにして、全然やらなかったら、日本のエネルギーの自給率というのは乏しいままです。仮に電力会社が嫌がってもやらせるためには、やっぱり国家権力が必要でしょう」という。
原発推進の舞台裏を見せて、かえって当方の発言の補強をしてくれたようなものと思い、あえて論駁しなかった。残念だったのは、この日、株主総会の直前とあって、電力会社の代表者である部会委員たちが、全員揃って欠席だったこと。
嫌でも原発をつくらされる側の感想は聞けなかった。(N)
「風車」-第二五五号(一九九九年六月)
「実は地方電力は悩んでいるところであります」。昨年十一月十三日に開かれた電気事業審議会の基本政策部会専門委員会で、中国電力の古川隆副社長は、電気事業の部分自由化に対し、こう述べた。
同副社長は、まず「専門委員会の委員一九人のうち、東京、大阪、名古屋の方が一八人で、他の地域からは私だけ」と、発言を切り出している。そして冒頭の話となる。氏のいう「地方電力」が建設を計画中の原発は「一三五万kW級になっております。これら地方電力は、部分自由化がない場合においても、年間一〇万kWか二〇万kWしか需要増加を見込んでいません。そういう状況の中で原子力を推進していかなければならない」。
にもかかわらず、自由化の影響を最も受ける「地方電力」には、意見を言う機会すらほとんど与えられていない、というのである。原子力長期計画の策定メンバーにも、「地方電力」の代表者は、これまで一人も選ばれた例がない。預り知らないところで原発推進の目標を設定され、需要低迷、自由化で、大型原発がお荷物となる可能性は、きわめて高い……。
と悩みながら、島根3号の増設、上関1、2号の新設に向けて次々と電源開発調整審議会への上程を準備しているのだから、何をか言わんやだ。そのツケは、電力会社にだけでなく、住民にこそ大きくまわされるのである。(N)
「風車」-第二五四号(一九九九年五月)
一九九九年度の電力各社「供給計画」が出揃った。そこから原発の計画を抜き出して、4面に図示した。
計画通りに運転を開始すれば、二〇一〇年度末までに二十基の増設となる。もちろん、そんなことになろうはずはない。二十基増設の掛け声に辻つまを合わせただけの、画に描いた餅であることは、火を見るより明らかだ。
今年度中に電調審(電源開発調整審議会)に上程される計画の七基のうち、六基までが、昨年度中の上程計画を一年遅らせたものである。うち五基は、その前年度の計画から延期されたものであり……と、遡っていけば切りがない。運転開始の計画も、毎年のように延期が繰り返されている。来年度には、辻つま合わせも限界を迎えよう。
それにしても、延期をする一方で、環境影響調査書の提出を急ぎ、公開ヒアリングを急ぐのは、どうしたわけか。六月十二日の環境アセスメント法施行を前に滑り込みを狙っているのは確かだが、上関原発計画に顕著なごとく、むしろ早く動かすことにはしたくない電力会社の事情もうかがえる。
電調審だけでも通しておけ、と国はけしかけるが、土地が確保できなければ巻原発計画の頓挫の二の舞い。漁業権の放棄が望めなくては、電調審から着工まで九年半を要した女川原発1号の失敗の再現となろう。困るのは国、ではないのだろうか。(N)
「風車」-第二四〇号(一九九八年三月)
「実証テストに使った原子炉等の試験体はモニュメントとして広場に展示してあります。本来ならこういうものも解体して処分するところですけれども、今、鉄が安いために、処分料がかえって高くかかりますので、モニュメントとして残してございます」。
香川県多度津町にある原子力発電技術機構の工学試験所における説明である。原子炉といっても、耐震試験用につくられた二分の一程度の大きさの試験体で、放射性ではない。それでも処分料のほうが高いのだとしたら、放射能の測定コストまで上乗せされる、原発の廃炉から出てくる鉄材は、とても処分なんてできないだろう。
東海原発が、いよいよ三月末で廃炉となる。ガス冷却炉の廃炉としては世界に経験のない解体が待っている(4面資料参照)。その解体で出てくる二十万トンほどの廃棄物のうち、九割近くは放射性として扱わないことし、再利用も行なって処分コストを下げるというのが、国や電力会社の考えだ。が、そう易々とは問屋が卸しそうにない。
廃棄物処分費を除く廃炉費用は約二百五十億円と見積もられ、日本原電ではすでに積み立てた廃炉引当金から支出するという。では廃棄物処分費は、さて、どうするのか。もはや発電をしない東海原発の料金に含めるわけにはいかないことだけは、確かだ。どこまでつつく泥縄ぞ。(西尾)
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「風車」-第二三九号(一九九八年二月)
科学技術庁と動燃とが互いに職員を出向させ合い、親密な関係を築いてきたことは、昨年四月号に載せた一覧表などで既に見た通りだ。
これでは規制行政なんてできようはずもないと思っていたら、さらにとんでもないことが、わかった。原子力局の廃棄物政策課には、動燃ばかりでなく、電力会社からも人が送り込まれているという。
原子力安全局とちがって安全規制が仕事ではない、との言いわけは無効だ。同課が担当する高レベル放射性廃棄物のあと始末をめぐっては、電力会社や動燃の「発生者責任」が厳しく問われている。ところが電力会社は、電気事業連合会会長の言(4面「原発『推進者』の発言から」参照)に露骨に示されているように、責任逃れと国への押しつけに躍起だ。そんなとき、きわめて重要な役割を担う事務局に電力会社や動燃の人間が配置されていて、透明性のある行政が期待できるだろうか。
別の面でも、気がかりなことがある。まさに未来を左右する重大事を扱う廃棄物政策課に、本来の科技庁職員は課長、課長補佐、係長一人の三人だけなのだとか。他は皆よそから派遣されてきた職員で、銀行から来た人などが働いている。
そんな体制で何ができるのか、と考えれば背筋も寒くなろう。無責任なのは電力会社に限らないようだ。よほど褌を締めてかからずばなるまい。(西尾)
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「風車」-第二三七号(一九九七年一二月)
本紙がお手元に届くころ、第三回の気候変動枠組み条約締約国会議が閉会して一週間ほどが経っている。それまでの報道ラッシュが一過性に終わっていないことを、切に望みたい。
もっとも、報道があればよいというものでもない。批判をふくめてしばしば報じられた「原発二十基増設」論とは、いったい何だったんだろうと、本紙でも前号で取り上げながら、今更のように思っている。
二酸化炭素の排出量が最も多い燃料は石炭だとされる。その石炭を燃やす火力発電所が、今年七月にも二基、合わせて二百万キロワットが営業運転に入った。同じ七月に開かれた電源開発調整審議会では、やはり二基、計二百万キロワットの建設着手が認められている。建設中の石炭火力の合計出力は七百八十四万五千キロワット、他に電調審で着手が決定したものの合計が九百十四万キロワットある。
一方で、大騒ぎがされていた原発は、建設中のものが八十二万五千キロワット、着手決定済みが、確実に建設できない巻原発八十二万五千キロワットまで数えて四百六十六万三千キロワット。それなのに石炭火力の建設の是非は、温暖化報道の記事の山の中でまったく問題にされなかった。
ひょっとしたら原発増設論の狙いは、本気で原発をつくりたいというより、省エネにブレーキをかけ、石炭から目をそらすことだったのか。非現実的な提案も、それなら納得できる!?(西尾)
「風車」-第二三六号(一九九七年一一月)
高速増殖炉懇談会(F懇)が、「高速増殖炉開発の在り方」と題する報告書案をまとめた。上の記事にあるように、無責任なお墨付きで、かつ珍妙なシロモノである。
八月一日に動燃改革検討委員会が出した報告書が高速増殖炉開発の意義を高らかにうたいあげていたのに引き比べ、肝腎のF懇の報告書案には、「将来の原子力ひいては非化石エネルギー源の一つの有力な選択肢」という控え目な記述があるのみ。実用化の展望は、何ら示されていない。かくてはならじと、高速炉万歳の「補足意見」が、委員の一人である秋元勇巳・三菱マテリアル社長によって付け加えられた(4面参照)。
この意見が報告書案そのものに採用されなかったのは、高速増殖炉開発の中止を求める立場での「少数意見」を書いている吉岡斉・九州大学教授と真っ向から衝突したから―だけでは、なさそうだ。当初の人選からして開発推進派が多数なのは明らかなのに、報告書案では「多数意見」ということのみを理由に結論を導いているのだから。実用化の展望を欠く以上、秋元氏の意見は、現在の軽水炉の欠陥を暴き立てる意味しかもたない。それこそ多数派の賛成が得られなかったゆえんだろう。
秋元説に立てば「やがて行き詰まってしまう」ことが自明な原子力に、一体いつまでしがみついていこうというのか。(西尾)
「風車」-第二三五号(一九九七年一〇月)
動燃スキャンダルの後を追って、今度は原発配管工事のデータ改竄が明るみに出た。九月十七日付の電気新聞の「記者手帳」欄にいわく「民間でも、ということにならねばよいが」。
しかし、事故隠しは、もともと民間のほうが先輩である。美浜1号炉では燃料棒の折損が、七六年の内部告発まで三年間にわたって隠されていた。数々の事故隠しが明らかになった八一年の敦賀1号炉の放射性廃液流出では、放射性廃棄物の管理の杜撰さが問われた……。
さて、「記者手帳」子はなかなか過激で、四月二十一日付の同欄では、「(動燃は)企業風土が民間とは全然異なる。荒療治が必要」とも、また、「でもこんな組織に誰がした! 所管の科技庁自体の存廃は?」とも書いていた。今回もきっと、荒療治の必要と所管の通産省の存廃を提起してくれることだろう。
ここで突然に話は変わるが、九月十七日付のほうの「記者手帳」には、先の引用につづいて、「不完全燃焼だったエアコン商戦。マイナス分は冬物でカバー。熱気帯びる販促活動」とあった。電力需要の拡大にも、やはり過激である。夏前の六月十六日付では「勝負の時。心配は冷夏予想。整販一体で盛り上げを」と煽り立てていた。
電気しかつくれない原発が電力需要の開拓を求め、地球環境の悪化を促す。これこそがスキャンダルでなくてなんだろう。(西尾)
「風車」-第二三三号(一九九七年八月)
「もんじゅ」の事故隠しで、略式手続きによる刑事処分が行なわれた(上段)。略式とは、公判を開かずに刑を言い渡すものだ。
略式手続きは、被疑者に異議がない旨を確かめた上で初めて実行される。つまり、動燃および二人の職員は、被疑事実について争わなかったということである。それだけ被疑事実が明白だった、と言ってよいだろう。
にもかかわらず、虚偽の報告を受けた科学技術庁は告発をしなかった。動燃理事長らを告発したのは、全国各地の住民たちだ。略式手続きによる刑事処分は、改めて科技庁の責任を問うものと言えまいか。
科技庁が告発しなかったのは、省みて羞じるところがあったからかもしれない。七月十八日付の報告書で動燃は、入域時刻の操作について科技庁の検査官に伝えていたことを明らかにした。「裏付ける第三者の証言がない」として報告書には盛り込まれなかったものの、運転管理専門官に話したという動燃職員の証言もある。
二十二日付の福井新聞は、「ウソと知りながら科技庁が報告書を受け取ったとしても虚偽報告になるのか」と書いていた。むしろ科技庁の罪のほうが重い。そもそも核燃料サイクルという虚構こそ、事実を生み、事故隠しを生んだ最大のウソなのだ。その点での科技庁の罪はもっともっと重い。
裁かれるべき者は未だ裁かれていない。(西尾)
「風車」-第二三一号(一九九七年六月)
何ともお恥ずかしい。三月号の一面に大きな抜けのあったことに、今さらながら気がついた。
プルサーマル計画がにわかに動き出した背景に、使用済み燃料が貯まりつづけている「国内事情」がある。そこで、六ヶ所再処理工場の貯蔵プールに早々と搬入しようと考えられているのだが、「そのためには、使いみちのないプルトニウムが貯め込まれるのはごめんだという青森県側に対し、使いみちを明らかにする必要があった」と書いた。
正しくは「使いみちのないプルトニウムへの批判から再処理計画がストップし、使用済み燃料がただ貯め込まれるのはごめんだ」……と、少し長くなる。鹿内博さんが五月号の一面で言う「六ヶ所村がいっそう『核のゴミ捨て場』の様相を強める」事態への反発である。
と訂正をしたその上で、だが、こうも言い添えておこう。むりやりプルサーマル計画を決め、使用済み燃料を搬入して、六ヶ所再処理工場の操業を強行したなら、使いみちのないプルトニウムが貯め込まれるのは、やはり避けられない。
プルサーマルが仮に計画通りに進むとしたところで、再処理工場を動かす限りプルトニウムは貯まりつづける。いずれ止めなくてはならない再処理なら、早く止めるほうがいい。
使用済み燃料の行き先がないなら、原発の運転を止めるのが分別というものだろう。(西尾)
「風車」-第二三〇号(一九九七年五月)
科技庁と動燃の人事交流について、四月十九日付の毎日新聞が報じた。一足先に本紙四月号が一覧表を掲げており、月刊紙が日刊紙を「抜いた」形である。
校正が終わった直後に材料が手に入り、急遽、調べられる範囲の個人名をつけて、記事をさしかえた。快く応じてくれた「写植室ぼとむ」さんに深謝。お蔭で、科技庁と動燃の一体性を、文章より説得力のある一覧表で示すことができた。
とはいえ、それだけではまだ足りないところがあったようだ。この四月、動燃を退職した鈴木治夫なる人物が、科技庁長官官房付に「採用」された。実は、三年前の九四年七月に科技庁政策課長を辞し、動燃の技術協力部長に転じていた人である。その後、動燃国際部の担当役を経て、再び科技庁に帰還した。出向以外にこんなルートまであるのだから、他に何があったところで不思議はない。
あゝ堂々の癒着ぶり。四月二十一日付の電気新聞までが「こんな組織に誰がした! 所管の科技庁自体の存廃は?」と書く所以である。そんな科技庁が動燃を告発だの解体だのとは茶番もはなはだしい。他方、知らぬふりの原子力委も安全委も無責任だが、上には上がいる。
動力炉・核燃料開発事業団法にいわく「事業団は、内閣総理大臣が監督する」。「動燃という言葉も聞きたくない」なんて、いったいどの口から言えるのか。(西尾)
「風車」-第二二七号(一九九七年二月)
資源エネルギー庁が原発の長期サイクル運転の検討を本格化──と、一月十四日付の電気新聞が報じた。定期検査の実施間隔を最大十三ヵ月と定めた電気事業法施行規則を変更しようとするものだ。
十六ヵ月から十九ヵ月程度の長期サイクル運転を行なうことで設備利用率を向上させ、発電コストを下げるのが狙いである。電気料金の引き下げを強く求める通産省と、最も安易な形でそれにこたえたい電力業界の談合の産物と言える。
と同時に、もう一つ、原発の基数が増えて、定期検査の労働者の確保がままならなくなってきたという、切実な事情もあるらしい。現に昨年九月には福島第二4号炉が、定検の重複で他の原発に熟練労働者をとられ、計画通りに検査に入れない事態となった。長期サイクル運転が認められれば、より柔軟に対応できるわけだ。
経済重視にせよ労働力の不足にせよ、それ自体、これまで以上に原発の運転管理が危うくなってきていることを如実に示す。そして、長期サイクル運転を可能にする燃料の高燃焼度化は、原発の安全余裕をいっそう薄っぺらに削りとる。
実際、高燃焼度燃料の、事故実験では、被覆管の水素化などの影響で早々と燃料が破損したりした。相次いだ制御棒挿入失敗の原因の疑いもある。
長期サイクル運転は、無理に無謀を重ねるものでしかない。(西尾)
「風車」-第二二六号(一九九七年一月)
「国民不信を切って捨て」―十二月二十四日に出された九六年版『原子力白書』についての、二十五日付福井新聞解説記事の見出しだ。
「もんじゅ」事故で問われたものへの答が何ら見出せない「白書の空虚さ」に対する福井県民の強い失望感が、そこに鮮明に表わされている。むろん、その失望感は、福井県民だけのものではない。
九六年版『原子力白書』は、「国民とともにある原子力」と強調する。しかし、その中身たるや例年にまして原子力教への帰依を勧める記述の羅列。国民の意向に沿う姿勢は、露ほども見られない。原子力委員会の役割の自覚はどこにあるのか。
おまけに原子力教の経文は、それ自体が信頼性に欠ける。福井新聞の解説記事が言うのとは別の意味でも、「白書の空虚さ」が指摘されよう。エネルギー問題から説き起こしながら、環境のカの字も二酸化炭素のニの字も出てこないのだ。
原子力発電が二酸化炭素の排出を抑制し地球環境を守るというのは、ウソである。だが、ウソにせよ偽りにせよ、九四年版の『原子力白書』では、そう主張していた。にもかかわらず、九五年版にも九六年版にも、「環境」は、まるで姿を見せない。
これは、ウソを認めたわけではなく、そもそも環境のことなど、宣伝文句に使うとき以外は念頭にないのだろう。何と情けない原子力委員会であることか。(西尾)
「風車」-第二二三号(一九九六年一〇月)
チェルノブイリ原発4号炉内の放射線レベルが急上昇―九月十七日に飛び込んできた外電に驚かされたが、測定器に問題があったものとわかり、胸をなでおろした。
とはいえ、このことは、いまもなお事故炉のなかで燃料の再臨界の危険性があると、改めて示したと言える。先の外電によれば、炉内の放射線上昇に対する緊急調査は、過去十年で三回目だそうだ。
『原子力工業』誌の十月号がチェルノブイリ原発事故から十年の特集を組んでいて、燃料の安全性についての報告もあった。燃料は、金属やコンクリートとの溶融混合物などの形で残っており、未臨界度の測定が実施されている。心配はないとしながらも、万一の再臨界に備え、中性子を吸収するホウ酸化合物の注入装置が設置されている。
酸化した多量の水がたまっていることも指摘されており、石棺の崩壊により、燃料含有物質が移動するかもしれない。石棺の崩壊は、もちろん、放射能の大量放出を意味する。燃料含有物質は劣化し、塵化が進んでいる。不安の種は尽きない。
事故時に環境に出た燃料片からストロンチウム90が溶け出し、根から植物に吸収されていくことが、今後の重要な問題だとか。プルトニウム241の崩壊で生じるアメリシウム241の蓄積も観察され始めた。
チェルノブイリ原発事故に終わりはない。(西尾)
「風車」-第二二二号(一九九六年九月)
都市問題解決団主催の「都市交通シンポジウム」で、こんな話を聞いた。九五年度の日本政府の地球温暖化防止行動計画執行額は約十一兆円とされるが、うち八兆五千億円が道路建設費、五千億円が原子力利用促進費である……。
残りが本来の温暖化防止費用、かどうかも相当に怪しい。それはさておき、道路建設は交通渋滞を緩和し、燃費の向上に寄与するから炭酸ガスの放出抑制になるなんて、まさに火をもって火を救うの類だろう。道路建設は車の数を増やして炭酸ガスやその他の公害物質の放出を増大させ、しかも再び渋滞に行き着くことは明らかだ。
シンポジウムでは、車の排熱や道路の建設・舗装による土壌からの水分蒸発の減少がクーラー需要を押し上げて、発電に伴う炭酸ガスなどの放出を促すことも指摘されていた。車の製造やガソリン・軽油の精製にかかわる電力の使用を考えれば、車は「動く原発」であるとは上岡直見さんの言である。
原発がやはり、温暖化防止には水をもって水を救うの例であることは、いまさら弁ずるまでもない(八九年一月号、九五年六月号「反原発講座」参照)。それにしても呆れたのは、七月十九日付の電気新聞トップ記事だ。原発の定期検査を短縮して利用率を上げ、温暖化防止の「決め手」にするとか。
かくして温暖化は進むばかり──でよいのか!(西尾)
「風車」-第二二一号(一九九六年八月)
東北電力の東通1号計画が、電源開発調整審議会で着手を認められた。しかしこの計画が電力会社にとってお荷物にしかなりそうにないことは、九二年九月号の本欄で指摘した通りだ。
話は変わって、東京電力の原子力本部で、六月末に大幅な組織再編が行なわれた。このリストラで、二十二年の歴史をもつ原子力建設部が姿を消したことに注目したい。
他に廃止されたのは、原子力発電部、原子力業務部と、原子力保健安全センター。代わって、原子力計画部、原子力管理部、原子力技術部が設置されている。従来のまま残ったのは原子燃料部と原子力技術センターだ。
これまで「原子力本部の両輪」と言われてきた建設部と発電部が、ひっくるめて原子力管理部とされ、しかも極力スリム化を図るという。発電所や建設所の現場に大きく権限を委譲するとか。原子力技術部も、発電と建設に分かれていた技術者をいっしょにして、建設技術者が手持ち無沙汰となるのを避ける意味がある。
原発の建設時代の終焉に対応したものであることは、明らかだろう。原発は、建設時代から、あと始末の時代に移った。原子力計画部は、廃炉や廃棄物の処理・処分などを担当し、原子力本部の中心的存在となる。いよいよ電力会社も、あと始末に?被りはできなくなってきた。
新設どころではないのである。(西尾)
「風車」-第二二〇号(一九九六年七月)
前号「反原発講座」で吉岡斉さんは、電気事業法改正に伴う「シビアなコスト計算が、国策協力への拒否権発動の論拠として、強い説得力をもつことになる」と論じた。
その拒否権発動の第二弾と言えるかどうか……上段で根本がんさんが報告している東海原発の廃炉決定の話だ。
同原発の発電単価は一キロワット時あたり約二十円で、高い電気を東京電力に押し売りしてきた。売るほうも買うほうも、もっと早く廃炉にしたかったに違いない。大間の新型転換炉計画(拒否権発動第一号)の発電単価が約三十八円になることが昨年夏に初めてわかったわけでないのと同様、東海原発の経済的な破綻も、前々からわかりきっていたことである。
しかし、反原発の運動を勢いづかせてはならないとする政治的理由のみで、廃炉は先延ばしにされてきた。お陰で九三年から九四年にかけて一年以上も運転を休み、低圧タービン二基をまるごと交換するようなムダづかいまで強いられてきたのだ。できればその前に廃炉にしたかったことだろう。
やっと廃炉は決まった。とはいえ、解体撤去となれば、運転期間と変わらないほどの時間と膨大なコストをかけ、処分も再利用も困難な廃棄物の山を抱えることになる。
次の拒否権発動は、解体撤去をやめにして、原発の墓場のまま投げ出すことだろうか。(西尾)
「風車」-第二一九号(一九九六年六月)
現代美術の登竜門「現代日本美術展」の今年の大賞が、福井市の小林栄治さんの立体作品「囚われた科学技術の文明」に決まった。写真で見るに、籠の鳥ならぬ籠の「もんじゅ」である。
美術の世界にまで事故の衝撃が顔を出す一方、美浜町の観光ポスターからは「原発が消された」。水晶浜の海水浴場を宣伝するポスターのなかに使われた写真で、美浜原発の姿がきれいに削られたのだ。
「原発だからでなく、人造物なので、自然の海を強調するためには、ないほうがよいと思った」というのが、美浜町の商工観光課長氏の言いわけ。とはいえ、地元の誰もが、原発のマイナス・イメージを嫌ったものを受けとめたようだ。
「これまでのようなエネルギー必要論や、地域振興だけで原子力を推進する時代は終わった」と、福井県の石井佳治県民生活部長は、五月三日付の福井新聞で語っている。地域振興どころでないのは、右の話からも明らかだろう。とすればなおのこと、国や電力会社の言いなりになるわけにはいかない。
その歯止めが、新潟県巻町で行なわれようとしている住民投票であり、福井県が求める「国民合意」である。国民合意とは、もちろん、国の政策に国民が合意することではない。「国民の主張をどう政策に反映するか」なのだと、石井部長は説明している。住民・国民の責任も重い。(西尾)
「風車」-第二一七号(一九九六年四月)
九五年版の『原子力安全白書』が、三月二十九日に公表された。「もんじゅ」の事故が起きて、遅れていたものである。
しかし、その遅れは、単に「もんじゅ」事故に関する、およそ貧弱な一編を書き加えるためだけのものだった。それ以前にまとめられた部分については、何の変更もなかったことが読みとれる。これでは、「専門のワーキンググループを設置し、徹底した調査審議を行っている」と言われても、事故の本質に迫る調査審議が、とても期待できない。
大きな事故が起こるたびに、今回のワーキンググループに類するものがつくられながら、狭い意味の原因追及のみに終始し、「次の事故」を妨げずにきた。「もんじゅ」の事故もそのようにして起こったと言えるだろう。
事故の調査は「第三者」でと言われるのは、「身内」の調査の限界が、はっきり示されてきたからだ。「原子力安全委員会こそ第三者機関」との主張は、もともと説得力がなかったが、今回の『白書』がはしなくも第三者機関を名乗る資格のなさを立証した、と言えそうだ。
『白書』の公表に先立つ二十六日、原子力資料情報室の呼びかけで「もんじゅ事故総合評価会議」(小出昭一郎代表)が活動を開始したことが発表された。第三者機関は、いくつもあったほうがよい。
多くの「生活者」の声で、「もんじゅ」事故の真の教訓を生かしたい。(西尾)
「風車」-第二一六号(一九九六年三月)
東京電力、関西電力の二社が、プルトニウムの燃料加工を海外で行なうべく、すでに契約を結んでいたことが、二月二十六日付の読売新聞にすっぱ抜かれた。
東京電力は昨九五年四月に東芝と、関西電力は同十二月に三菱重工と委託契約を締結、さらに東芝がベルギーのベルゴニュークリア社、三菱重工がイギリスの核燃料公社(BNFL)に再委託している。契約量は、燃料集合体の数にして、東京電力が約六十体(フランスのラ・アーグ再処理工場で取り出されたプルトニウム四百キログラムを使用)、関西電力が十六体(英セラフィールド再処理工場で取り出されたプルトニウム使用。量は不明)。
ベルギーへの加工委託については、日本とベルギー両国の原子力協力協定で核兵器への転用防止などを定めなければならず、アメリカの事前同意も必要。これまたすでに政府は交渉をはじめているらしい。
「もんじゅ」の事故であれほど情報隠しが批判されたのに、まったく性懲りもない。東電は「私企業簡の契約でもあり公表しなかった」と言うが、海外への加工委託の話はしばしばマスコミで報道されている。それだけ社会的関心も高いということだ。「別に隠していたわけではない」とは、いかにも白々しい。
昨年は、地域が自ら決めることがはっきり世論化された年だった。地元無視の姿勢は、手痛い報いを受けることになろう。(西尾)
「風車」-第二一五号(一九九六年二月)
一月二十三日、福島、新潟、福井三県の知事が内閣総理大臣に「今後の原子力政策の進め方についての提言」を行なった。「陳情」でも「要望」でもなく、「提言」である。
福井県の県民生活部長は県議会での答弁で「国へは忠告しており、お願いしている意識は全くない」とまで説明している。その忠告とは、原子力政策の基本的方向について「幅広い議論を行い、改めて国の明確な責任において国民の合意形成を図ることが重要」というものだ。
つまり、現在、合意はないと言うのである。合意形成に際しては、「専門家の意見だけでなく、国民や住民の生活者としての意見や受止め方も十分踏まえたものとなるよう」注文することも忘れない。
また、「検討の段階から十分な情報公開を行う」ことや、「プルサーマル計画やバックエンド政策の将来的な全体像をこれらから派生する諸問題も含めて具体的に明確に」示すことを求めている。国が「必要な取組みに進んで努めなければ」「原子力行政に対する不安、不信を募らせる」とは、忠告というより、むしろ恫喝に近い。
それはともあれ、「提言」の背景には、言うまでもなく、そうした不信、不安が現にある。松下さんが3面で報告している福井県二十一万余の草の根署名あってこその「提言」だと、つけ加える必要があるだろうか。
福島、新潟、また然りだろう。(西尾)
「風車」-第二一四号(一九九六年一月)
御用納めの十二月二十八日、岐阜県庁で、超深地層研究所建設の協定書調印が強行された(3面記事参照)。
動燃から出向いたのはアノ大石博理事長、と聞いて仰天。「もんじゅ」のナトリウム火災で「これ以上情報が隠されていない、と断言する自信はなくなった」と述べ、「動燃の体質が根っこにあると思う」と語った人物である。
組織を掌握できていない理事長が、自ら信用していない組織を代表する二重の信頼性のなさ。始めから反故同然の協定書の調印は、茶番ですらない。
さて、右の動燃理事長談話が無責任発言ナンバーワンかと思っていたら、なかなかそうでもなさそうだ。原子力委員会の伊原義徳委員長代理が言う。「プルトニウムとウラン濃縮にかかわってきた動燃は、情報を公開しないよう国際的にも圧力を受け続けてきた。それが、組織の体質として染みついてしまったのだろうか」。
プルトニウムやウラン濃縮にかかわる以上、情報の非公開は当然のこと、と原子力委員会は勝手に決めこんできた。情報隠しと切り離せないことを明らかにし、それでもプルトニウム利用・原子力利用をつづけるか否かを国民に問うたことは一度もない。委員長代理の言は、動燃だけを悪者にして済ませられないことを示している。
問題は動燃の体質に非ず、原子力そのものの本質にあるのだ。(西尾)
「風車」-第二一二号(一九九五年一一月)
鈴木篤之東大教授の本欄へのご登場は、これで何回目になるだろうか。もうウンザリとの感がなくもないが、毎度おなじみ鈴木教授のお噂におつきあいを願います。
九月にフランスで開かれた「グローバル95」とやらいう国際会議で、鈴木教授は、こんな考えを披露した。いわく「ロシアの核兵器の解体から年間五トンのプルトニウムが出てくるが、そのうち二トンを日本が買って燃やせる。日本の世論は、核兵器の廃絶につながるこの費用を喜んで支払うだろう」。
「政府と企業にとって核燃料バックエンド問題についての重要なアドバイザーである」鈴木教授の発言とあって、アメリカで発行されている原子力専門紙が飛びついて報道、それをまた日本のマスコミが記事にした。でも、専門紙の報道が目につかなかったら日本で記事にはならず、世論は、そんな考えがあること自体を知るべくもなかっただろう。鈴木教授はなぜ、まず国内で提案をしなかったのか。
本来なら、福井県敦賀市こそ発表の場にふさわしい。「日本の世論は原子力の軍事利用と商業利用とを厳密に区別したがるので」商業用の原発では燃やせないが、「ふげん」と「もんじゅ」なら商業路でなく、区別にこだわらずに利用できる、と鈴木教授は言うのだから。
ユニークなご高説を、ぜひゆっくり敦賀市民の前でお聞きしたいものである。(西尾)
「風車」-第二一〇号(一九九五年九月)
反核パシフィックセンター東京が発行する『パシフィカ』五、六月合併号が、前号に続いてフランスの核実験やめろ!の特集を組んでいる。
潜水夫として核実験場で働いたノエル・バリアーさんの証言と写真が、とても生々しい。加えて、本紙前号の「反原発講座」に登場してくれた鈴木真奈美さんが、「フランス核産業に貢献する日本」を説き、前々号「講座」の筆者の渕脇耕一さんは、衆参両院による反核実験決議を批判している。
「いちばん気になる部分は、フランスの核実験再開の決定について、『いかなる理由に基づこうとも、いかなる条件が付されていようとも……人類の生存を脅かす行為である。』と述べているくだりだ」と、渕脇さん。「どういう理由で核実験を再開しようとしているのか、またどういう条件のもとで行なおうとしているのか納得行くまで説明してほしいと食い下がるのが、言論の府、国会の務めではないか」。
なるほど、と感じ入った。国会決議に限らず、私たちがよく集会アピールに用いる決まり文句についても、俎上に載せざるをえない。
その上で国会決議について、「すべての国の核兵器の製造、実験、貯蔵、使用にも反対」とあるのは刮目に値しよう。議員たちが承知の上で賛成したかは知らず、アメリカの「核の傘」をも否定した決議は、時代の変化を示すものと言えないか。(西尾)
「風車」-第二〇九号(一九九五年八月)
昨年六月に原子力委員会が決定した新原子力開発利用長期計画に、早くも破綻が生じた。大間ATR計画がおじゃんになったことだ。
新長期計画は、高速増殖炉の開発のしくじりから、プルトニウム・ウラン混合酸化物(MOX)燃料を軽水炉およびATRで利用することに力点を移し、余剰プルトニウムは出さないと強調した。そのATRが、たちまち転けたのである。
軽水炉でもMOX燃料の利用も、喜んで受け入れようとする地元自治体はどこにもなく、電力会社自身がなお及び腰。燃料製造の見込みすら立っていない。MOX燃料装荷の時期も基数も、すでに長期計画からの後退は確実となった。
利用が遅れれば、プルトニウムからのアメリシウムの再分離といったことまで必要になり、ただでさえ高いMOX燃料の製造コストをますます引き上げる。電力会社はいよいよ浮き足立つ。プルトニウムの余剰はふくらむなかりだ。
大間ATR計画の後釜にはABWRを建てる、ふつうの軽水炉ではMOX燃料の装荷は三分の一が限度だがABWRなら全炉心への装荷が可能で、ATRよりももっとプルトニウムを減らせる―と電事連は説明しているが、単なる辻つま合わせであって、本音でないのは誰の目にも瞭然だろう。
再処理をやめずに余剰プルトニウムを減らす手品のタネはない。(西尾)
「風車」-第二〇七号(一九九五年六月)
カナダのトロント大学が、原子力に関係する講座を今期限りで廃止すると聞いた。修士・博士課程だけは残すというが、いずれ、それもなくなりそうだ。
学生の原子力離れは、アメリカでは原子力学科をもつ大学の数、原子力学科に入る学生の数が激減していることが、九〇年に既に報告されていた。日本の状況について、本紙でも九二年七月号で、現役の学生にインタビューをしている。
東大の原子力工学科は、九三年四月からシステム量子工学科に改名した。しかし、嫌われるものの原子力の文字をなくした成果で学生が増えたとの話は、聞こえてこない。
同学科の鈴木篤之教授が『エネルギーいんふぉめいしょん』四月号で語っているところでは、原子力への夢は捨てきれないご様子。半導体だの超電導だの量子レベルでも技術がいろいろな分野で使われているのだから、「エネルギーの分野においてもこういう量子時代の技術がいずれは主流を占めるのではないか」と期待し、「量子の時代の一番上り詰めたところに原子核のエネルギーがある」のだと力説する。これでは「原子」じゃなくて「量子」だと言われてもねというのが、学生の側の正直な受け止め方だろう。
「太陽エネルギーも核融合ですから、実は量子時代のエネルギー」と言ってみたところで、システム量子工学科も先は見えている。(西尾)
「風車」-第二〇五号(一九九五年四月)
朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)への軽水炉供与の窓口となるKEDO=朝鮮半島エネルギー開発機構が三月九日、正式に発足した。米韓日の三ヵ国だけでの見切り発車である。
その設立協定に、供与する軽水炉は「韓国型」であることが明記され、強く反発した北朝鮮側は、実験炉の凍結解除をちらつかせて変更を迫っている。輸出実績どころか国内での実績もこれからの「韓国型」に三ヵ国側がこだわる理由は、韓国の原発輸出への執心のほかには見出せない。小村浩夫さんが『週刊金曜日』一月十三日号で説くように、原子力産業の「金儲けのための軽水炉支援」は明らかだ。
一方、北朝鮮側の姿勢からは、原子力開発への固執がエネルギー供給を主目的とするものではないことが、如実にうかがえる。核武装の意図はともかく、まるで核を外交の切り札とするための開発の様相である。
軽水炉なら核開発ができなくなるものでないのは、説明するまでもないだろう。現にアメリカは、ロシアや中国がイランに軽水炉を建設しようとしているのは「核拡散につながる」として、契約破棄などを求めている。近く始まる核不拡散条約の延長検討会議で、同条約に違反する要求だとアメリカが非難されるのは必至だが、軽水炉も核開発につながるというのは、実にその通りだ。
KEDO設立で問題は終わらない。(西尾)
「風車」-第二〇四号(一九九五年三月)
役員が会社に与えた損害を賠償させるため、会社に代わって株主が裁判所に訴える「株主代表訴訟」は、九三年の商法改正で、八千二百円の提訴費用で訴えが起こせるようになった。株主の権利を強化し、役員による会社の私物化を防ぐのが、その趣旨である。
ところが二月二十八日、名古屋地裁は、反原発の株主が電力会社の役員を訴えるのなら一億四千八百万円の担保を差し出せという、とんでもない決定を下した。「悪意ニ出デタ」訴えだから、被告=役員側が逆に不当訴訟の損害賠償を求めたときの支払い確保の必要がある、というのだ。これは、事実上、裁判を起こす権利の否定に等しい。
「芦浜原発計画株主代表訴訟」と呼ばれるこの裁判の経過については、本紙九四年五月号、七月号などを参照されたいが、名古屋地裁の決定を読むと、もってまわった言いわけと、おそろしく乱暴なこじつけに目を疑い、次いで怒りがこみ上げてくる。古和浦漁協への二億円の「預託金」支出が違法だとする訴えの正当性は、認めざるをえない。しかし、原告が求めている六十二億円の損害賠償のうち、二億円にすぎない! しょせんは反原発の企図からの訴えだから、全体として不当──と言うのだから、凄まじい。
原告団・弁護団は、「最低最悪の決定」だとして、名古屋高裁に即時抗告を行なった。(西尾)
「風車」-第二〇三号(一九九五年二月)
阪神・淡路大震災で被災された方々に、心よりお見舞い申し上げます。現在のご事情もわからないまま、従来通りに発送致します。全国の仲間たちの励ましを、間接的ながらお届けできれば幸いです。
大地震を受けて一月十九日、原子力安全委員会は耐震安全検討会を設置しました。ところが、同委事務局の科学技術庁の説明では、これは「現在の指針の妥当性を確認するもの」なのだとか。何のための安全委員なのでしょうか。
全国原子力発電所所在市町村討議会が一月二十三日、この検討会の設置に対して要請書を出したと聞いて、原発を抱える市町村としては、耐震設計審査指針のきちんとした見直しを求めるのは当然のこと、と思いました。まさか、社会を不安がらせないでほしいという要請とは思ってもみなかったのです。
原発の寿命はせいぜい数十年。その間に大地震にぶつかる確率はきわめて低い。それなら、ヘタに騒いでくれるなということなのでしょう。もし大地震が現実に襲えば、地震対策の不備と原発事故対策の不備が重なるのですから、そんなことは考えたくもないのでしょうね。
首長たちは、現に原発を抱えることの重さにすくんでしまうのかもしれません。しかし、生命は勝たねばならない(森瀧市郎)のです。希望をもって生きる道を切り開いていきたいと思います。(西尾)
「風車」-第二〇一号(一九九四年一二月)
十一月二十五日に開かれた閣僚懇談会で、田中眞紀子科学技術庁長官が次のように発言―と報じられた。いわく「原子力委員会の委員の学者の専門的な意見と、市民が感じるところに開きがある。委員選任にも悩むことが多い」。
原子力委員会の委員長は、当の科技庁長官。四人の委員のうち、現状では三人までが元官僚や電力会社、動燃事業団の元役員である。もともと「専門的な学者」とは縁遠い人選なのだが、それはともかく、もっと"市民感覚"をもった委員が選任されるのが望ましいとする田中長官の言は頷ける。
"市民感覚"と言わずとも常識的な考えをもった人が原子力委員のなかにいたら、この日、他ならぬ田中長官・原子力委員長の名で閣議に報告、了承された原子力白書のような、世界の流れにいっそう逆行するプルトニウム利用論が、いまだに生き残っているはずもない。否、生き残るどころか、日本の「核燃料リサイクル路線」こそが世界を救うのだとか。時代錯誤はエスカレートするばかりである。
仮に白書が言うように、早くプルトニウムを利用しないと二〇三〇年過ぎには世界はエネルギー危機に陥るとしたら、二〇三〇年頃に高速増殖炉を実用化という長期計画でも手遅れとなる。なおのことプルトニウムには頼れない。
そう悟るのが、市民の常識というものではないか。(西尾)
「風車」-第一九九号(一九九四年一〇月)
関西電力は九月六日、美浜3号炉、高浜1、2号炉の原子炉容器の上蓋を交換することを発表した。フランスやスウェーデンなどの原発で数年前から、上蓋を貫通している管のひび割れが見つかり出し、大きな問題になっていたが、関電では、ひび割れは起きていないが予防保全的に取り替えることにした、という。
一方、東京電力では、五月二十九日に福島第二3号炉のジェットポンプ支持梁の折損、六月二十九日には福島第一2号炉の炉心シュラウドの損傷発見があった。これらも各国の原発で、同じ事故が続発している。いよいよもって老朽化が深刻化してきた、と言えそうだ。
そのことは、直ちに経済性の問題にはね返る。ジェットポンプの交換費用、シュラウドの補修費用は明らかにされていないが、蒸気発生器の交換は一基二百~三百億円、原子炉容器上蓋の交換は同じく三十億円。過酷事故の対策にも、一基につき数億円から十数億円がかかるらしい。あれやこれやと積み重なっていけば、へたをすると当初の建設費に匹敵する補修費になりかねない勢いだ。
もう十年以上も以前に、日本原電の浅田忠一常務(当時)が敦賀原発のことを、「いくら償却しても簿価が下がらない。建設後に金のかかった発電所」と語っていた。いまや、すべての原発に同じことが言えそうだ。(西尾)