「風車」-第八一号(一九八四年一二月)
東北電力が「土地利用の見直し」を言い出して安全審査がストップしている巻原発の原子炉設置許可申請を電力に突き返せ―と、巻原発反対共有地主会のメンバーらが通産省に要求している。すでに何度か交渉も重ねられた。
何をどう見直すのか、いっさいを尋ねることもないままに、「場合によっては安全審査をやり直すことになりかねないので、自主的な判断で」審査を中断している、というのが通産省のお役人の答弁。中断以来すでに一年二カ月になるが、「どうなっているのか」と電力側に問いただすこともないという。電源開発の計画的遂行をうたう電調審で計画に組み入れられたにしては、ずいぶんとノンビリした話だ。
地主会の土地を避けて通ろうとの土地利用の見直しはどうやら難しい。炉心予定地のすぐ近くにも未買収地があり、通産省が申請を早く却下しないお蔭で利権亡者たちの争いのタネになっている。町の多くの人々はさめきってしまい、「原発ができると信じているのは利権亡者たちと反対派だけ」との辛辣な批評が地主会に寄せられたそうだ。それなのにいつまでも申請を暖めて利権亡者たちを踊らせるとは、通産省も罪つくりである。
電力を助けるためにノンビリ屋をきめこむのでなく、ほんとうに長期的な見通しに立って計画を白紙に戻してほしいものだ。(西尾)
「風車」-第八〇号(一九八四年一一月)
「核の冬」など核戦争後の状況についての議論が欧米でまことにさかんである。評価をすればするほど、核戦争の直接的影響を生き延びた人びとを待ちうける状況は厳しい。その欧米で状況はここまで来たか、とつくづく考えさせられることが起こっている。
最初にその話を聞いたのは、アメリカのある大学で学生が投票を行なって、核戦争が起こったときの安楽死用自殺剤ピルを大学側が備えるべきであるという決議を"可決"した、というニュースだった。その時点での事は一種のパロディ風反核運動に思えた。
『科学』十一月号のディクスンの一文は、「核戦争時の安楽死」の問題が、西洋人にとって切実な問題として重くのしかかっていることを示す。イギリスのある村の医師たち二人が、村人の圧倒的支持を得て、核戦争時の「集団自殺」用にモルヒネ硫酸塩を医師が処方できるようにする運動を始めた、という。
この先、誰かが「いつでも安楽死できる毒薬の常備を」と言い出すのも時間の問題だ。「核戦争三分前」の苦痛に耐えられないと感じる人も少なくないだろうから。これを異常というのはたやすい。しかし、我々のまわりの世界の方が呑気すぎるのではないだろうか。
もちろん、我々の運動は人々に絶望を強調することでなく、生きる力を与えるためのものでなくてはならない。(高木)
「風車」-第七九号(一九八四年一〇月)
ギリシャ神話の中に有名なプロメテウス神話というのがある。プロメテウスが天上の火を盗んで人間に与え、そのため彼はゼウスの怒りにふれて、山に縛られ、肝臓をはげたかに食われた。
ギリシャ神話は驚くほど人間について示唆的である。十月となると原子力推進派は「プロメテウスの火」をもち出し、原発、さらにはプルトニウムに結びつけ、「火を盗んだ」英雄プロメテウスを讃える。
ところが、ヘシオドスによれば、人間をもともと天上で自由に神と同じ火を使っていた。プロメテウスが奸計を働いたがために、ゼウスは人間から火を奪い、やむなくプロメテウスは火を盗んだ。だがこの盗んだ火はもはや「天の火」と同じでなく、いつも燃料を与えて維持しないと燃え尽きる「死すべき火」であった。「プロメテウスの火」は、実は不自由な火の象徴だったのである。そう考えると、「プロメテウスの火」はそのままプルトニウムに結びつく。
現代における「プルトニウム神話」は、カレン・シルクウッド事件だ。プルトニウム工場の女性技術者が殺されたこの事件は、探るほどに神秘を宿し、病めるプルトニウム社会を象徴する。まさに「神話」と呼びたいほどに示唆的な事件である。カレンの死から十年、いま軍艦に守られてプルトニウムが戻ってくる。(高木)
「風車」-第七七号(一九八四年八月)
七月十八日、六ヶ所村への「核燃料サイクル基地」の立地が、小林電事連会長から発表された。否、小林会長の呼びかえによれば「原子燃料サイクル」だ。
「原子力平和利用に対する正しい理解をいただくために」軍事利用を連想させる"核燃料"という言葉を追放したい、という。一ヵ月前に発足したばかりの「核燃料サイクル立地推進連絡会議」は名称を変更、電力各社も「核燃料部」などの衣替えを決めた。
日本原燃サービスは八〇年の発足の時点から「原子燃料サイクル」と言っていたのだから、先見の明ありというべきか。同社は「再処理」の語感も嫌って「再生産」と言いかえている。『朝日ジャーナル』の七月二十日号によれば、東京電力では「放射性廃棄物」を「放射性派生物」と書きなおしているらしい。
電力会社などが「なんとかならぬか」(六月二十九日付電気新聞)として「不用意に使うことを避け」(政策科学研究所)『原子力安全性に関する総合調査研究』)たがっている言葉には、このほかに「原発」「被曝」「廃炉」「事故」「汚染」といったものがある。そういえば「美浜原発は欠陥原発ではない。能力的に見て欠点があるだけだ」なんて言ってたお役人もいたっけ。
言葉よりも「核燃サイクル基地」そのものの追放のほうが早道だと思いませんか、小林さん。(西尾)
「風車」-第七六号(一九八四年七月)
全炭鉱労組は、全国にある数百の石炭の廃鉱を、原発の放射性廃棄物の投棄場所として活用する案を推進することを決めた、という。
この手の話は、まじめに扱う気にもならないのだが、さりとて放ってもおけない。そこでいきおいわが「風車」欄の常連ということになるのだが。
それにしてもねぇ、いったい全炭鉱さんとやらは何を考えているんだろう。もちろん、これを報じた毎日新聞のいう通り、「斜陽化する一方の石炭産業の中で、何らかの雇用確保をはかるための苦肉の策」なんだろうけど、そんなことで雇用が確保されると本気で考えているのだろうか。そうだとすれば憤る以前に悲しくなる。
同じ毎日新聞によると、原子力研究所のエリートたちは、石炭産業ならぬ原子力産業の「斜陽化」の危機を本気で心配し、今後の乗り切り策をいろいろ検討しているらしい。もっともこっちの方は「ドラム缶を廃鉱に」という程の"メイ案"もないらしい。しかし、原子力を推進・宣伝しながら、その内側で逃げ道を考えているとは、さすがにエリートは抜け目なく、セコい。
それにしても、結局のところ、どちらも金の話、安全よりもエネルギー問題よりも、金にどうありつくかという発想だ。原子力の周辺には、死臭の如く金の臭いが漂って、亡者たちを誘うらしい。(高木)
「風車」-第七五号(一九八四年六月)
佐賀県玄海町。九州電力の原発二基が稼働しているが、「大事故は起きない」という固い信念のもと、町として「防災対策」はいっさい立てないという。
町長にとっては、原発よりも職員のほうが心配らしい。昨年九月に完成した町の新庁舎は「原発御殿」と呼ばれる豪華なもので、その文字通りの目玉が、職員監視の目、職場の隅から隅までを助役室のブラウン管に映し出すテレビカメラだ。ズームアップもできる新鋭機である。
各課長席と助役室をつなぐインタホンは、助役が相手に気づかれずに聞くだけの一方通行も可能。周辺の会話を盗み聞くことまでできるらしい。「これまでもしてきたことをカメラやインタホンを通すようになっただけ」で、"職場管理の近代化"なのだそうだ。
この玄海町に、さらに二基の原発を増設するべく、六月十八日に第二次公開ヒアリングが強行されんとしている。九州電力としては、ただでさえ発電設備が過剰となっていて、海外にまで企業誘致の使節団をくり出し、電力需要の開拓に必死なのに、それでも百十八万キロワットの超大型原発を二基もつくるのは、地元に金を落とす約束をホゴにできないからだ。
さらにその金で今度はどんな"近代化"をなそうというのだろうか。(西尾)
「風車」-第七四号(一九八四年五月)
いつ観たのか、どんな映画だったのか、すっかり忘れてしまっているのだが、コンピュータのご託宣に頼る宗教国家を描いた映画があった。神殿の中央に祭壇ならぬコンピュータが鎮座ましましていたのだけをはっきり覚えている。
急にそんなことを思い出したのは、原研が「緊急時環境線量情報予測システム」なるコンピュータ・システムを開発した、という記事に接したからである。うたい文句によれば、「原発の大事故の場合の避難誘導の参考とする」ために、「五十キロ四方の風下住民の受ける線量が鉄道や道路などの地形とともに事故後十分足らずのうちにブラウン管に映し出される」というのである。
コンピュータ信仰がここまで来たかと言いたくなる話である。本誌の読者の皆さんだったら、そんな机上の計算などおよそ実態を反映しないことはすぐにもわかるだろう。そんなものに命を預けた形で避難をさせられるようでは、もはや邪教の支配と同じことではないだろうか。
記憶が正しければ、かの映画ではコンピュータは最後に火を噴いて、裏で操っていた犯罪集団は化けの皮をはがされて自滅した。コンピュータ占いを制度化するようでは、わが科学技術庁の自滅も間近いかもしれぬ。(高木)
「風車」-第七三号(一九八四年四月)
日本の新聞を読んでいるだけでは分らない事柄が、あまりにも多い。特に海のむこうで何が起こっているのか、この国の新聞は少しもちゃんと伝えてくれない。
そんなことのひとつに、ソ連が繰返し行なっている「平和」目的の核爆発がある。とんだ「平和」もあったものだが、要するに開発目的の地下核実験である。アメリカでもかつてプラウシェア計画というのがあったが、環境運動の猛反対で中止された。ソ連では最近とみに頻繁で、昨年は十六回も爆発があったという。
爆発のひとつの目的は石油や天然ガスの採掘だ。そのうち、家庭のガスコックをひねったら、放射能入りのガスが……てなことにもなりかねない。日本にもシベリアのガスを開発輸入する計画があるだけに、右のようなことはあり得ぬことではない。
あり得ぬことといえば、メキシコからアメリカにかけて最近起こった、コバルト線源による大量被曝事故は、"あってはならない"放射能事故の恐怖をまざまざとみせつけた。ソ連とアメリカで信じられないようなことが次々と起きている。しかし、新聞を読んでいるだけでは、そんな大事なことが少しも分らない。マスコミさん、ミウラ騒ぎはいい加減にしたらどうでしょう。(高木)
「風車」-第七二号(一九八四年三月)
のっけから品格を疑われそうだが、「万里の長城からションベンすればゴビの砂漠にニジがたつ」という替え歌があった。植民地主義の臭いの強くのこる文句である。ところがゴビの砂漠もそれどころではなさそうだ。
中国の原子力開発の話がにぎやかだ。仏、独、日などから輸入して原発建設を、という話からついには、使用済み燃料や放射性廃棄物の引き取りをして外貨獲得という話にまで、一挙にエスカレートしてきた。そしてゴビの砂漠である。
西洋の報道機関によれば、中国は西ドイツの使用済み燃料をゴビの砂漠に保管し、その代金としてトン当たり百五十万ドル受けとるということで"商談"が進んでいるという。ゴビの砂漠もついに放射能の雲で覆われることになるのか。
中国政府の皆さん、「ゴビの砂漠は広いから」というような「反人民的」な考えをどうかやめて下さい。これは決して内政干渉などではなく、放射能の山に恐怖する日本列島住民からの切実なメッセジーなのです。
実際、日本の政府・産業界のなりふり構わぬ対中国輸出産業騒ぎはどういうことだろうか。日本には世界に卒先して原発の軍事利用を防ぐ使命があるはずだ。いま我々の運動ももうひとつ新たな課題を担わなくてはならないだろう。(高木)
「風車」-第七一号(一九八四年二月)
原子力船「むつ」をめぐる一連の報道を目にして、何とも奇妙に思ったのは、あたかも自民党がいっさいの決定権を持っているかのような報じられ方だ。実際にその通りらしいことは、このかんの経緯からして間違いないのかもしれないが、やはり、どこかおかしいのではないか。
原子力基本法によってタテマエ上の決定権を有している原子力委員会が、自民党側の政治決着(というより、決着の引き延ばし)にぶつける形で二十四日に発表した「むつ」存続の最終方針は、報道の扱いとしても小さく、ほとんど無視されている。向坊隆委員長代理をはじめとする全委員が一斉辞任、とのうわさが流れたりしたのも、無理のないことだろう。
しかし、だからといって、原子力委員たちに同情する必要は、さらさらない。事務局である科学技術庁の意向につねに追従し、みずから原子力委員会の権威を引き下げてきたのは、ほかならぬ歴代の委員たちだ。そもそも、ことここに至ったいまとなってなお、「原子力船の技術等の蓄積のための最も有力な手段」として「むつ」の存続をうたう姿勢は、まさに度しがたい。
原子力開発の大きな曲がり角を迎えて、原子力委員会のあり方もまた改めて問われている。(西尾)
「風車」-第七〇号(一九八四年一月)
謹賀新年。元旦に突然三十年前のことが記憶に甦った。科学マニアの友が語った「夢の原子力時代」の話である。自動車や飛行機までもがマッチ箱ほどの燃料で動くと、高校受験を目前にひかえた補習授業帰りの田舎道、友の話は熱っぽかった。
当時の私は文学少年で、友の科学万能論には情緒的にやや反撥したものの、原子力の印象は小さくなかった。その直後に起こった第五福竜丸事件で、初めて放射能という言葉の意味を知った。だが同時に始まった「平和利用」と結びつけて考えてもみなかった。
それから十年もたつ頃には、どういう風の吹きまわしか、科学少年だった友は小説を書き始め、私はといえば原子力産業に身をおいて、二十年後の原子力時代を想いつつも、ようやくビキニの意味を考え始めていた。
今にして思えば、現在はすっかり売れっ子SF作家となったかの科学少年の原子力論は、アイゼンハワーの国連演説「平和のための原子」直後のことで、おそらく正月の新聞の特集記事の受け売りだったろう。
一九八四年ということでオーウェルばりの未来予測が盛んだ。しかし、原子力三十年、その間私たちにとって原子力とは何だったのかを振り返るに相応しい年ではないだろうか。(高木)