「風車」-第二〇一号(一九九四年一二月)
十一月二十五日に開かれた閣僚懇談会で、田中眞紀子科学技術庁長官が次のように発言―と報じられた。いわく「原子力委員会の委員の学者の専門的な意見と、市民が感じるところに開きがある。委員選任にも悩むことが多い」。
原子力委員会の委員長は、当の科技庁長官。四人の委員のうち、現状では三人までが元官僚や電力会社、動燃事業団の元役員である。もともと「専門的な学者」とは縁遠い人選なのだが、それはともかく、もっと"市民感覚"をもった委員が選任されるのが望ましいとする田中長官の言は頷ける。
"市民感覚"と言わずとも常識的な考えをもった人が原子力委員のなかにいたら、この日、他ならぬ田中長官・原子力委員長の名で閣議に報告、了承された原子力白書のような、世界の流れにいっそう逆行するプルトニウム利用論が、いまだに生き残っているはずもない。否、生き残るどころか、日本の「核燃料リサイクル路線」こそが世界を救うのだとか。時代錯誤はエスカレートするばかりである。
仮に白書が言うように、早くプルトニウムを利用しないと二〇三〇年過ぎには世界はエネルギー危機に陥るとしたら、二〇三〇年頃に高速増殖炉を実用化という長期計画でも手遅れとなる。なおのことプルトニウムには頼れない。
そう悟るのが、市民の常識というものではないか。(西尾)
「風車」-第一九九号(一九九四年一〇月)
関西電力は九月六日、美浜3号炉、高浜1、2号炉の原子炉容器の上蓋を交換することを発表した。フランスやスウェーデンなどの原発で数年前から、上蓋を貫通している管のひび割れが見つかり出し、大きな問題になっていたが、関電では、ひび割れは起きていないが予防保全的に取り替えることにした、という。
一方、東京電力では、五月二十九日に福島第二3号炉のジェットポンプ支持梁の折損、六月二十九日には福島第一2号炉の炉心シュラウドの損傷発見があった。これらも各国の原発で、同じ事故が続発している。いよいよもって老朽化が深刻化してきた、と言えそうだ。
そのことは、直ちに経済性の問題にはね返る。ジェットポンプの交換費用、シュラウドの補修費用は明らかにされていないが、蒸気発生器の交換は一基二百~三百億円、原子炉容器上蓋の交換は同じく三十億円。過酷事故の対策にも、一基につき数億円から十数億円がかかるらしい。あれやこれやと積み重なっていけば、へたをすると当初の建設費に匹敵する補修費になりかねない勢いだ。
もう十年以上も以前に、日本原電の浅田忠一常務(当時)が敦賀原発のことを、「いくら償却しても簿価が下がらない。建設後に金のかかった発電所」と語っていた。いまや、すべての原発に同じことが言えそうだ。(西尾)
「風車」-第一九八号(一九九四年九月)
ロシアの核施設で技術者・作業員らが施設内に立てこもる事件が頻発しているという。給料の未払いなどに抗議してのものである。
かつて核開発が盛んにすすめられていたときには、彼らは「国家が必要とする人間」として優遇され、矜持も高かった。ところが、核兵器解体の時代を迎えてみれば、右のごときありさまだ。解体作業の予算支出が遅れているとか。国家はその重要性を認めていないらしい。
だが、核開発のあと始末をきちんと行なうことこそ、何より大切ではないのか。これに失敗すれば、重大な事故につながりかねない。プルトニウムや高濃縮ウランが横流しされたりしないかも、気がかりだ。
前号の本欄で、核物質の密輸の話を取り上げた。それから一ヵ月の間に、事態はいっそう深刻になってきている。そして、核開発のあと始末の困難さと国家の無責任さという事情は、ひとりロシアのみならず、アメリカだって変わりがないだろう。かつて国家から与えられた誇りを同じ国家から奪われた核技術者たちの不満は、陰にこもって鬱積している。
これは、そのまま、原子力発電の未来の予言だ。否、そんな未来は願い下げにしたい。将来の負担を少しでも軽くするには、一刻も早く脱原発に向かい、責任をもって万全のあと始末が行なえる体制を、いまから築いていくべきだろう。(西尾)
「風車」-第一九七号(一九九四年八月)
プルトニウム239の純度が九九・七パーセントという超兵器級プルトニウムの密輸事件が明らかになった。押収されたのは六グラムだが、他に百二十~百五十キログラムものプルトニウムが闇市場に出回っているという。
謎だらけの事件の発端は五月十日のことだ。ニセ札づくりを捜査中のドイツの警察が、シュツットガルト空港で逮捕した実業家の自宅車庫で六十キログラムほどの金属粉の入った鉛容器を見つけた。当初は軽視されていたこの金属粉が、水銀だのアンチモンだので水増しされたプルトニウムだったのである。
純度が高いのは、遠心分離法で濃縮をしたものだかららしい。そこで、特別な核弾頭を開発中の研究所が出所なのでは、などと推測されている。ロシアからマフィアの手で持ち出され、ブルガリア、ギリシャを経て密輸されたとか、取り引き相手はイラク在住だとか、スイスで五~六ヵ所が捜索されたが、プルトニウムは発見されなかったとか、KGBや東欧の武器商社が関係しているとかと、なかなかもって賑やかだ。
大量のプルトニウムが実際に流出しているかどうかは不明なものの、遅かれ早かれ起こって不思議のない事態だとも言える。解体核兵器から取り出されるプルトニウムを、ロシアでは商品化しようとしているが、そんなことをしていれば核流出の危険は大きくなるばかりだろう。(西尾)
「風車」-第一九六号(一九九四年七月)
六月二十四日、新しい原子力開発利用長期計画が、原子力委員会によって決定された。残念ながらさして代り映えのしない改定である。
しかしそれでも、変えようとしたのだとは思う。また、変えざるをえなかったはずである。にもかかわらず変えきれなかった。その結果に、官僚機構の限界が見える。
とまれ「軽水炉から高速増殖炉へ」の基本方針は、修正を余儀なくされた。そのぶん軽水炉時代が長期化するという。これは、ツケをすべて軽水炉にまわすことだ。老朽化に伴って運転管理がさらに重要になる。ところが一方、原発の運転者そのものが不足しそうだ。
過酷事故の対策がいっそう強く求められながら、経済性の維持のためには燃料の高燃焼度化を促進しなければならない。プルトニウム利用の面でも、軽水炉が主役に押し出された。危険性は増すばかりである。
廃棄物問題がより深刻化するのは、言うまでもない。プルトニウム利用が遠退いて、かなりの量の使用済み燃料が長期貯蔵されようとしている。さしあたりは、各原発サイトでの貯蔵量を増やすしかない。エネルギーの供給源としての原子力の有用性は、いよいよもって不透明になってきた。
新長期計画が示しているのは、プルトニウム利用の困難さばかりでなく、原子力発電そのものに本質的な無理があるということだ。(西尾)
「風車」-第一九三号(一九九四年四月)
前号の執筆者は、1面から4面まですべて、男性で占められていた。最近では、これは珍しい。
本紙を創刊した一九七八年当時は、男性ばかりの紙面を避けるには、意識して女性に原稿を依頼しなくてはならなかった。それが、チェルノブイリ原発の事故の後では、ことさらにそうしなくとも自然と、女性の手になる記事が増えてきている。編集部の構成も、男性二人から男女各一人へと変わった。
ところが、この四月から、渡辺美紀子さんが編集部を離れざるをえなくなった。残るは男性一名のみ。苦しい台所事情から、二人に戻るのは、当分の間、難しそうだ。紙面にまた変化が出るのは、避けられないだろう。
本紙の編集は、常勤の編集部と、毎号交代で加わる各地の方々(本号では柏崎)とによって行なわれている。常勤が一人となれば、いろいろと偏りが大きくなりそうだ。そこはぜひ、読者の皆さんに助けていただきたい。ユニークな運動のご報告、ご提案などをお寄せ下さいと、改めてお願いします。
渡辺さんは、原子力資料情報室のスタッフとしてはいままで通り身近な存在だ。今秋にベラルーシで開催が計画されている、チェルノブイリ事故の影響に関する国際シンポジウムでは、事務局を担当する。渡辺さんのいっそうの活躍を期待し、これからも本紙の紙面に登場してもらいたいと思う。(西尾)
「風車」-第一九二号(一九九四年三月)
「原子力、国民と一緒に考える」──『エネルギーレビュー』九三年十二月号の巻頭インタビューで、原子力安全委員会の佐藤一男委員は、そんな心構えを強調した。
「国民の皆さんは原子力発電をどう進めるかについての決定プロセスに参画したいと思っておられるのではないでしょうか」と、佐藤委員は述べている。「やはり国民の方々と一緒になって考え、一緒になって判断していくという心構えが、これからはますます必要になってくるという気がします」
原子力委員会が専門部会を設けて改定の作業をすすめている原子力開発利用長期計画について、科学技術庁が一般からの意見を募ったのは、この二月。三月はじめに「ご意見をきく会」も開かれた。
これと佐藤委員の発言とは、直接の関わりはないだろう。むしろ、直接の関わりなしに共通する考えが示された点に、意義を見出したい。その上で、科学技術庁の意見聴取のやり方は、「国民と一緒に考える」心構えからほど遠い、と断じざるをえない。
長期計画の改定を闇雲に急ぐ理由はないのだ。時間をかけて、国民と言わず、あらゆる人と一緒に考えることをしてはどうか。形の上で「決定プロセスに参画する」にとどまらず、原子力開発を根本から問い直すことが必要である。
「国民と一緒に原発推進」というのでは困りますものね。(西尾)
「風車」-第一九一号(一九九四年二月)
森瀧市郎さんが亡くなられた。本紙で対談をしていただいたのが、ちょうど十年前。八四年の一月号である。ビキニ水爆実験、第五福竜丸の被曝を契機に原水爆禁止の運動が生まれて三十年、日本で原子力開発がスタートして三十年という節目の年だった。
それから十年。何が変わり、何が変わっていないのだろうか。十年前の対談のお相手をお願いした栗原貞子さんから今年届いた年賀状には、こうある。「ヒロシマでは今も放射能の人体実験が続いています」
広島、長崎での人体実験にあきたらず、多くの核実験や放射能戦争の実験などがくり返されてきた。先の対談での森瀧さんの言に反して、「広島後」も力の原理は生き残っているように見えなくもない。しかし、森瀧さんは、「生命は勝たねばならぬ」「民衆を信じる」と言いきられた。その楽観主義は、被爆後の血を吐く思いをくぐり抜けて育まれたものだろう。
「核のない未来」をきっと実現します。森瀧さん、どうぞ安らかに。(西尾)