「風車」-第二三七号(一九九七年一二月)
本紙がお手元に届くころ、第三回の気候変動枠組み条約締約国会議が閉会して一週間ほどが経っている。それまでの報道ラッシュが一過性に終わっていないことを、切に望みたい。
もっとも、報道があればよいというものでもない。批判をふくめてしばしば報じられた「原発二十基増設」論とは、いったい何だったんだろうと、本紙でも前号で取り上げながら、今更のように思っている。
二酸化炭素の排出量が最も多い燃料は石炭だとされる。その石炭を燃やす火力発電所が、今年七月にも二基、合わせて二百万キロワットが営業運転に入った。同じ七月に開かれた電源開発調整審議会では、やはり二基、計二百万キロワットの建設着手が認められている。建設中の石炭火力の合計出力は七百八十四万五千キロワット、他に電調審で着手が決定したものの合計が九百十四万キロワットある。
一方で、大騒ぎがされていた原発は、建設中のものが八十二万五千キロワット、着手決定済みが、確実に建設できない巻原発八十二万五千キロワットまで数えて四百六十六万三千キロワット。それなのに石炭火力の建設の是非は、温暖化報道の記事の山の中でまったく問題にされなかった。
ひょっとしたら原発増設論の狙いは、本気で原発をつくりたいというより、省エネにブレーキをかけ、石炭から目をそらすことだったのか。非現実的な提案も、それなら納得できる!?(西尾)
「風車」-第二三六号(一九九七年一一月)
高速増殖炉懇談会(F懇)が、「高速増殖炉開発の在り方」と題する報告書案をまとめた。上の記事にあるように、無責任なお墨付きで、かつ珍妙なシロモノである。
八月一日に動燃改革検討委員会が出した報告書が高速増殖炉開発の意義を高らかにうたいあげていたのに引き比べ、肝腎のF懇の報告書案には、「将来の原子力ひいては非化石エネルギー源の一つの有力な選択肢」という控え目な記述があるのみ。実用化の展望は、何ら示されていない。かくてはならじと、高速炉万歳の「補足意見」が、委員の一人である秋元勇巳・三菱マテリアル社長によって付け加えられた(4面参照)。
この意見が報告書案そのものに採用されなかったのは、高速増殖炉開発の中止を求める立場での「少数意見」を書いている吉岡斉・九州大学教授と真っ向から衝突したから―だけでは、なさそうだ。当初の人選からして開発推進派が多数なのは明らかなのに、報告書案では「多数意見」ということのみを理由に結論を導いているのだから。実用化の展望を欠く以上、秋元氏の意見は、現在の軽水炉の欠陥を暴き立てる意味しかもたない。それこそ多数派の賛成が得られなかったゆえんだろう。
秋元説に立てば「やがて行き詰まってしまう」ことが自明な原子力に、一体いつまでしがみついていこうというのか。(西尾)
「風車」-第二三五号(一九九七年一〇月)
動燃スキャンダルの後を追って、今度は原発配管工事のデータ改竄が明るみに出た。九月十七日付の電気新聞の「記者手帳」欄にいわく「民間でも、ということにならねばよいが」。
しかし、事故隠しは、もともと民間のほうが先輩である。美浜1号炉では燃料棒の折損が、七六年の内部告発まで三年間にわたって隠されていた。数々の事故隠しが明らかになった八一年の敦賀1号炉の放射性廃液流出では、放射性廃棄物の管理の杜撰さが問われた……。
さて、「記者手帳」子はなかなか過激で、四月二十一日付の同欄では、「(動燃は)企業風土が民間とは全然異なる。荒療治が必要」とも、また、「でもこんな組織に誰がした! 所管の科技庁自体の存廃は?」とも書いていた。今回もきっと、荒療治の必要と所管の通産省の存廃を提起してくれることだろう。
ここで突然に話は変わるが、九月十七日付のほうの「記者手帳」には、先の引用につづいて、「不完全燃焼だったエアコン商戦。マイナス分は冬物でカバー。熱気帯びる販促活動」とあった。電力需要の拡大にも、やはり過激である。夏前の六月十六日付では「勝負の時。心配は冷夏予想。整販一体で盛り上げを」と煽り立てていた。
電気しかつくれない原発が電力需要の開拓を求め、地球環境の悪化を促す。これこそがスキャンダルでなくてなんだろう。(西尾)
「風車」-第二三三号(一九九七年八月)
「もんじゅ」の事故隠しで、略式手続きによる刑事処分が行なわれた(上段)。略式とは、公判を開かずに刑を言い渡すものだ。
略式手続きは、被疑者に異議がない旨を確かめた上で初めて実行される。つまり、動燃および二人の職員は、被疑事実について争わなかったということである。それだけ被疑事実が明白だった、と言ってよいだろう。
にもかかわらず、虚偽の報告を受けた科学技術庁は告発をしなかった。動燃理事長らを告発したのは、全国各地の住民たちだ。略式手続きによる刑事処分は、改めて科技庁の責任を問うものと言えまいか。
科技庁が告発しなかったのは、省みて羞じるところがあったからかもしれない。七月十八日付の報告書で動燃は、入域時刻の操作について科技庁の検査官に伝えていたことを明らかにした。「裏付ける第三者の証言がない」として報告書には盛り込まれなかったものの、運転管理専門官に話したという動燃職員の証言もある。
二十二日付の福井新聞は、「ウソと知りながら科技庁が報告書を受け取ったとしても虚偽報告になるのか」と書いていた。むしろ科技庁の罪のほうが重い。そもそも核燃料サイクルという虚構こそ、事実を生み、事故隠しを生んだ最大のウソなのだ。その点での科技庁の罪はもっともっと重い。
裁かれるべき者は未だ裁かれていない。(西尾)
「風車」-第二三一号(一九九七年六月)
何ともお恥ずかしい。三月号の一面に大きな抜けのあったことに、今さらながら気がついた。
プルサーマル計画がにわかに動き出した背景に、使用済み燃料が貯まりつづけている「国内事情」がある。そこで、六ヶ所再処理工場の貯蔵プールに早々と搬入しようと考えられているのだが、「そのためには、使いみちのないプルトニウムが貯め込まれるのはごめんだという青森県側に対し、使いみちを明らかにする必要があった」と書いた。
正しくは「使いみちのないプルトニウムへの批判から再処理計画がストップし、使用済み燃料がただ貯め込まれるのはごめんだ」……と、少し長くなる。鹿内博さんが五月号の一面で言う「六ヶ所村がいっそう『核のゴミ捨て場』の様相を強める」事態への反発である。
と訂正をしたその上で、だが、こうも言い添えておこう。むりやりプルサーマル計画を決め、使用済み燃料を搬入して、六ヶ所再処理工場の操業を強行したなら、使いみちのないプルトニウムが貯め込まれるのは、やはり避けられない。
プルサーマルが仮に計画通りに進むとしたところで、再処理工場を動かす限りプルトニウムは貯まりつづける。いずれ止めなくてはならない再処理なら、早く止めるほうがいい。
使用済み燃料の行き先がないなら、原発の運転を止めるのが分別というものだろう。(西尾)
「風車」-第二三〇号(一九九七年五月)
科技庁と動燃の人事交流について、四月十九日付の毎日新聞が報じた。一足先に本紙四月号が一覧表を掲げており、月刊紙が日刊紙を「抜いた」形である。
校正が終わった直後に材料が手に入り、急遽、調べられる範囲の個人名をつけて、記事をさしかえた。快く応じてくれた「写植室ぼとむ」さんに深謝。お蔭で、科技庁と動燃の一体性を、文章より説得力のある一覧表で示すことができた。
とはいえ、それだけではまだ足りないところがあったようだ。この四月、動燃を退職した鈴木治夫なる人物が、科技庁長官官房付に「採用」された。実は、三年前の九四年七月に科技庁政策課長を辞し、動燃の技術協力部長に転じていた人である。その後、動燃国際部の担当役を経て、再び科技庁に帰還した。出向以外にこんなルートまであるのだから、他に何があったところで不思議はない。
あゝ堂々の癒着ぶり。四月二十一日付の電気新聞までが「こんな組織に誰がした! 所管の科技庁自体の存廃は?」と書く所以である。そんな科技庁が動燃を告発だの解体だのとは茶番もはなはだしい。他方、知らぬふりの原子力委も安全委も無責任だが、上には上がいる。
動力炉・核燃料開発事業団法にいわく「事業団は、内閣総理大臣が監督する」。「動燃という言葉も聞きたくない」なんて、いったいどの口から言えるのか。(西尾)
「風車」-第二二七号(一九九七年二月)
資源エネルギー庁が原発の長期サイクル運転の検討を本格化──と、一月十四日付の電気新聞が報じた。定期検査の実施間隔を最大十三ヵ月と定めた電気事業法施行規則を変更しようとするものだ。
十六ヵ月から十九ヵ月程度の長期サイクル運転を行なうことで設備利用率を向上させ、発電コストを下げるのが狙いである。電気料金の引き下げを強く求める通産省と、最も安易な形でそれにこたえたい電力業界の談合の産物と言える。
と同時に、もう一つ、原発の基数が増えて、定期検査の労働者の確保がままならなくなってきたという、切実な事情もあるらしい。現に昨年九月には福島第二4号炉が、定検の重複で他の原発に熟練労働者をとられ、計画通りに検査に入れない事態となった。長期サイクル運転が認められれば、より柔軟に対応できるわけだ。
経済重視にせよ労働力の不足にせよ、それ自体、これまで以上に原発の運転管理が危うくなってきていることを如実に示す。そして、長期サイクル運転を可能にする燃料の高燃焼度化は、原発の安全余裕をいっそう薄っぺらに削りとる。
実際、高燃焼度燃料の、事故実験では、被覆管の水素化などの影響で早々と燃料が破損したりした。相次いだ制御棒挿入失敗の原因の疑いもある。
長期サイクル運転は、無理に無謀を重ねるものでしかない。(西尾)
「風車」-第二二六号(一九九七年一月)
「国民不信を切って捨て」―十二月二十四日に出された九六年版『原子力白書』についての、二十五日付福井新聞解説記事の見出しだ。
「もんじゅ」事故で問われたものへの答が何ら見出せない「白書の空虚さ」に対する福井県民の強い失望感が、そこに鮮明に表わされている。むろん、その失望感は、福井県民だけのものではない。
九六年版『原子力白書』は、「国民とともにある原子力」と強調する。しかし、その中身たるや例年にまして原子力教への帰依を勧める記述の羅列。国民の意向に沿う姿勢は、露ほども見られない。原子力委員会の役割の自覚はどこにあるのか。
おまけに原子力教の経文は、それ自体が信頼性に欠ける。福井新聞の解説記事が言うのとは別の意味でも、「白書の空虚さ」が指摘されよう。エネルギー問題から説き起こしながら、環境のカの字も二酸化炭素のニの字も出てこないのだ。
原子力発電が二酸化炭素の排出を抑制し地球環境を守るというのは、ウソである。だが、ウソにせよ偽りにせよ、九四年版の『原子力白書』では、そう主張していた。にもかかわらず、九五年版にも九六年版にも、「環境」は、まるで姿を見せない。
これは、ウソを認めたわけではなく、そもそも環境のことなど、宣伝文句に使うとき以外は念頭にないのだろう。何と情けない原子力委員会であることか。(西尾)