2004年01月22日

「風車」-第二九七号(二〇〇二年一二月)

「風車」-第二九七号(二〇〇二年一二月)

「欠陥原発動かし二法案」の動向は、二面に報告されている通りである。「原発トラブル隠しの再発防止策」とされる法案だが、十一月二十九日付福島民友の社説は、これを真っ向から批判している。

「だれがなぜ、何のために隠ぺい工作やねつ造行為をしたのか、という肝心の事実が全然、解明されていない」中で「きわめて拙速かつ無効な動きと言うしかない」と、その舌鋒は鋭い。「維持基準」の導入は「原発の安全性評価を現状よりも『甘くする』恐れを排除できない」という指摘は他にも見られるが、導入論そのものの欺瞞性を突く視点は、きわめて新鮮だ。

「新品同様の品質保証を強調してきたのは国と事業者のほうだった」「いまになって『新品同様であること』が『不合理だ』と言い出すなら、その不合理の責任は国と事業者にあることをまず、はっきりさせるべきではないか」--そこには、「東京あたりでは主流になりつつある」論法を斬る形で、地元の思いが在り在りと示されていた。

二面で武本和幸さんが述べていることの底流にも、多くの原発が「停電なく停止する」事態の中でのほほんとしている「東京あたり」の人々に苛立つ地元の思いがあるのではないか。「脱原発を全国的に考えるチャンス」を生かせないのは都市住民の責任だと言われないように、大いに奮励するとしたい。(N)

Posted by 編集部 at 17:45

「風車」-第二九六号(二〇〇二年一一月)

「風車」-第二九六号(二〇〇二年一一月)

「『原発検査基準』で名称クルクル/安全“強調”に苦心」と見出しのつけられた記事が、十月二十八日の毎日新聞夕刊に載っていた。

「維持基準」と言われていたものが「欠陥評価基準」に変わり、「許容欠陥評価基準」と言い直され、さらに「健全性評価基準」に変更されたのを辿った記事である。どんな名称をつけようと、むろん中身は変わらない。原発コストの削減を狙った安全規制の緩和に、何ら変わりはない(本紙前号参照)。

この基準を導入するための電気事業法の「改正」案が、本紙がお手元に届く前には国会に提出されていることになる。但し、法案そのものに盛られるのは「基準に基づいた設備の健全性評価と結果の記録・保存の義務づけ」で、肝心の基準は国会に提出されない経済産業省令に委ねられるしくみである。

とはいえ、法案が数の力で通り、基準が導入されたところで、地元自治体がひび割れの「健全性」を許容し、運転再開をすんなり認めることはありえない。国と電力会社に対する不信感を、基準の導入はより大きくすることが確実だ。

もんじゅの運転再開また然り。不信の中で、ただでさえ理由のない再開がどうしてできようか。核燃機構は二〇〇五年七月に再開と言い出したが、これは六ケ所再処理工場の運転開始計画と同年同月。

仲良く心中しようということか。(N)

Posted by 編集部 at 17:45

「風車」-第二九一号(二〇〇二年六月)

「風車」-第二九一号(二〇〇二年六月)

非核三原則の見直しもありうるという福田官房長官の発言が議論を呼んでいる。問題になって慌てて「小泉政権の下では見直しはしない」と弁明したが、同政権がいつまで保つと思っているのだろう。

政権が変わっても三原則が堅持されるためには、単なる宣言ではなく、見直しの動きを封じる具体性を持った三原則の法制化が、最低限、必要となる。その中で、プルトニウムの生産に歯止めがかけられるべきことは言うまでもない。

福田発言を受けて、福島県の佐藤知事は六月三日、「テロや非核三原則が話題になっているいま、プルサーマルを推進しろという理由が分からない」「(核燃料サイクルを進めてしまうと)プルトニウムがどんどん増える。どこかでしっかり考えないといけない」と述べたという。プルサーマルはプルトニウムを減らすものでは決してなく、せいぜい死の灰で汚して核兵器への転用を難しくするだけだが、それ以上に六ヶ所再処理工場の運転開始を合理化し、むしろプルトニウムを(それも日本国内に)増やしてしまうのだ。

六ヶ所再処理工場を動かせば動かすだけ、余剰プルトニウムを増やす。非核三原則の見直しから核兵器の製造までは、あっと言う間である。そんな再処理工場を抱えた青森県知事は、今の事態について、さて何を表明するのだろうか。(N)

Posted by 編集部 at 17:45

「風車」-第二九〇号(二〇〇二年五月)

「風車」-第二九〇号(二〇〇二年五月)

政府は四月十六日、武力攻撃事態法案と自衛隊法改正案、安全保障会議設置法改正案の三法案を閣議決定し、衆議院に提出した。いわゆる有事法制整備の第一歩である。

この法案が、「国民の安全の確保に資する」(武力攻撃事態法案第一条)どころか、人々の自由と権利を侵害し、むしろ危険を招き寄せるものであることは、すでにさまざまに指摘されている。ところが十七日の福井新聞には、敦賀市の河瀬一治市長の、次のようなコメントが載っていた。「法案は原発の安全確保の強化につながるとの観点から意義がある」。

法案のどこにも、そんな条文はない。むしろ法案そのものが戦争の準備と受け取られ、国際的な緊張を高めるのが落ちだろう。再処理に固執する姿を重ね合わせれば、核戦争を準備しているとさえ見えるかもしれない。だからこそ再処理工場も原発も、「予防」攻撃の対象となる。そうなれば「自国内に置かれた敵国の核兵器」になるのは必至だ。原発立地市の長としては思慮に欠ける発言だった。

武力攻撃事態法案は、電力会社など「指定公共機関」は「武力攻撃事態への対処に関し、その業務について、必要な措置を実施する責務を有する」としている。その中身は不明。「武力攻撃事態以外の」緊急事態対処の措置もまた不明である。第一歩を踏み出すこと自体が狙いらしい。(N)

Posted by 編集部 at 17:44

「風車」-第二八九号(二〇〇二年四月)

「風車」-第二八九号(二〇〇二年四月)

「間違いがとてもわかりやすい」--六ヶ所ウラン濃縮工場の事業許可をめぐる裁判の判決(↓2面)の感想を求められて、こう答えた。

たとえば、原告適格を狭めた根拠を見るがいい。事故の被害が広範囲に及びうるとの原告の主張に対し、「右の主張における被害は、本件施設から放出された放射性物質が、周辺環境を介して広範囲に拡散する中で人体へ摂取されることにより生じるものであって、本件施設の事故により直接もたらされるものとはいい難く……そのような被害を受けるにとどまる住民の生命、身体の安全等は……個々人の個別的利益として保護されるものではない」。

放射線の影響に「しきい値の存在を前提として」審理判断する、と読んで誤植を疑った記述の理屈は、次の如し。「しきい値がないものとした場合、そのような非確率的影響(あれ? やっぱり誤植? 否、まるまる誤解なんでしょうね)をいかなる程度においても防止しようとするならば、六フッ化ウランの漏洩や放射性廃棄物の排出を皆無とし、臨界事故その他の事故発生の可能性も絶対的に零としなければならないことになる」。

施設は有益なんだから、臨界事故くらい起きても不運だったと諦めなさい、と判決は言う。実は筆者は法廷で、施設に一利もないことをこそ証言したのだが、反論すらなく無視された。(N)

Posted by 編集部 at 17:43

「風車」-第二八八号(二〇〇二年三月)

「風車」-第二八八号(二〇〇二年三月)

全国の電力需要が、二月も前年の実績を下回った。七ヵ月連続の前年割れは、過去最長である。

六ヵ月連続は、二回の石油ショックの時に起きている。一月にこれと並んだことを二月十八日付電気新聞の「デスク手帳」は、「石油ショックの時は外的要因による不況風。今回は構造的要因によるものだけに根が深い」と書いた。そんな質の違いに加えて、二月には、量的にも記録を塗り替えたことになる。

そしてさらに、七ヵ月連続でストップする保証は、どこにもない。一月三十一日付の電気新聞は「長期需要低迷」の大見出しを掲げ、「今年度は電力十社の販売電力量だけでなく、自家発電なども含めた総需要も前年度実績を割り込むことがほぼ確実」と書いていた。「来年度についても本格的な需要の好転は見込めず、気温補正前の総需要は今年度に引き続き前年割れとなる可能性が強い」。

電力自由化の進展に対応するべく料金の値下げを余儀なくされている電力会社にとっては、まさに「泣き面に蜂」である。「需要の伸びの低迷に極めて弱い体質」と、かつて当時の四国電力の社長が嘆いた原発は、いよいよもってお荷物となってきた。そこで熱出力一定運転とか、定期検査の期間短縮・間隔延長とか、果ては「公的支援」という名の責任放棄とかの悪足掻きが強まっている。何よりそれが恐い。(N)

Posted by 編集部 at 17:43