青森の「東奥日報」が、独自の取材による「フクシマの教訓」を連載している。そのうち8月18日付の「『安全神話』で自縄自縛」と見出しのついた記事が興味深かった。
安全神話というと、原発をすすめている人々が根拠もなしに「安全」を信じている姿が、すぐ頭に浮かぶ。事実、そうした実例には事欠かない。しかし右の記事は、「安全でない」とわかっていても改められなくしてしまうのが安全神話なのだと言う。「安全神話によって電力会社は自縄自縛に陥り、施設の改善にも後ろ向きになった。施設の安全性を高めるために改良工事をしようとして『これまで絶対安全と言ってきたのは何だったのか』と地元住民や反対派から追及されることを極度に恐れるようになった」と。
同様のことは、石橋克彦編『原発を終わらせる』(岩波新書)で吉岡斉さんによっても指摘されている。「この『原子力安全神話』はもともと、立地地域住民の同意を獲得し、立地審査をパスするために作り出された方便に過ぎなかった。しかしひとたび立地審査をパスすれば、電力会社はそれ以上の安全対策に余分のコストを費やす必要はない。こうして『原子力安全神話』が制度的に、原子力安全対策の上限を定めるものとして機能するようになる」。
異議はある。しかし、それを述べる余白はなくなった。
4面「原発推進者の発言から」に採録したように、電気事業連合会は資源エネルギー庁長官あての要望書で、「原子力は国策で遂行されてきた」のだから、その責任を国が取るようにと求めている。「国のエネルギー政策で原子力をやっているのだから、廃棄物も国が全責任を持ってほしい」と嘗て発言した電事連会長もいた。
切羽詰まると、本音が出てくるらしい。「国策民営」という言葉があるように、国策に従って原発をつくらされてきたことは事実である。その代わり電力会社の経営者たちは、資本主義の原則を外れて、原発が経営を圧迫しても「国策ですから」と開き直ることで、株主からの追及を免れてきた。
とはいえ、事故の責任までというのは、虫がよすぎる。これまで「原発はすばらしい」と宣伝をしてきた舌の根は、まだ乾いていない。そもそも「すばらしい」原発なのだから、国の助けなど期待せずに推進を堅持して、住民や株主に信を問うべきだろう(事故の責任は、誤った規制をしてきた国にこそあるが、「異常に巨大な天災地変」を主張する電力会社としては、その点では国も免罪とするしかない)。いや、「国策だから協力したまで」と言うのであれば、自己批判の上で協力拒否をはっきり宣言すべきだ。
自らの責任には頬被りをして、国の責任=電気事業の救済を願う姿は見苦しい。
原発推進者の発言から
◎責任回避の居直り
原子力は国策で遂行されてきたこと等から、東京電力だけでなく国も賠償責任を果たしていくべきと考えます。
(電気事業連合会「『原子力損害賠償に関する政府支援の枠組み』への要望」、2011年5月18日)
高レベル廃棄物を受け入れた地域は「死の地域」となるかのように反対派は主張していると思われているとすれば、それは誤解である。
日本のどこかしらでは、受け入れてもらわなくてはならないものなのだ。そこが「死の地域」になってよいはずがない。しかしもちろん、安心して引き受けてよいということではない。大きな危険性を有するものだからこそ、そのことを十分に理解したうえで、危険が顕然化することのないよう管理をしていく必要がある。
安全に処分できますと宣伝をして、お金をつけますから処分地に手をあげてください、国から申し入れがあったら引き受けてください、というやり方は、明らかに間違っている。大変な問題なのだということをきちんと認識して、大変なことをしかしやらなくてはいけないのだ。そのためには、現状では日本中どこでも反対なのだと突きつけるのが早道かもしれない。
そこで初めて、特定の地域が考えればよいことではなく、少なくとも日本に暮らすすべての人が真剣に考えるべきことにできるだろう。地下300メートル以深への処分で安全が保てるのか、もっとよい方法はないのかを改めて問い返すこともできるだろう。廃棄物の量を少しでも小さくして管理の方法その他の選択肢をひろげることに本気にもなるのではないか。